90回記念号 p7 | 国展

国画会が運営する日本最大級の公募展。

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北海道から中央へ」登竜門として定着する国展版画                                    

会員 内藤克人                                       

国画会版両部と北海道の係わりは1968年、第42回展への木村多伎子会員の人選に遡る。
 出品のきっかけは当時から北海道の版画界で指導的な立場にあったモダンアート協会の中谷有逸氏が「木村さんの作品は木版画に伝統がある国展に向いている」と勧めたことがきっかけと伺っている。以後、受賞を重ね会友、会員とキャリアを積むが、後に続く出品者がなかな出てこなかった。「公募展は1~2回入選するだけでは意味がない。長く続けられる方を」と安易に出品を勧めなかった木村会員の思慮が伺われる。

kimura-work 木村多伎子 室内 110×85cm 2007

そんな状況が変わったのは2000年の第74回展である。国展出品について私や早川準会員など4名が木村会員に相談し、事務所の白鳥会員から図録を送っていただいた。作品の多様性と水準の高さに感銘を受け国展への初挑戦を決めた。幸い全員初人選を果たし歓喜の中、当時会場だった上野の都美術館に駆けつけた事がなつかしい。
 懇親会では美術雑誌や国際コンペ等で活躍する憧れの先生方を紹介されとても緊張した事を思い出す。しかし、若手会員だけでなくいわゆる重鎮の方々も気さくに接して下さり、親切にアドバイスしてくれたことに一同感激した。「国展は作品も凄いけど雰囲気いいよ!」の声は瞬く問に広がり出品者が急増した。
 そして2003年に木村会員の悲願であった札幌展が実現した。北海道は版画が盛んといっても層の厚さは東京と比較にならない。同展は迫力ある大画面や高度な技術など、北海道版画界に「黒船来襲」のようなインパクトを与えたと自負している。これをきっかけに、版画を学ぶ学生や若手が競って国展を目標とするようになった。現在の出品者数は一時程ではないものの安定している。国展が中央への登竜門として定着していると考えている。
 ただ残念なこともある。やはり海を隔てた遠方からの出品は大きな負担を伴う。せっかく入選と受賞を重ね、会友、準会員と実績を積んでも退会する方が少なくない。
 国展出品が作家活動のメリットとなる具体的なアピールや企画が今後の課題と考えている。 (北海道北広畠市在住)

 

ルーツ

会務委員 小原喜夫

四年前に中部国展は50周年を迎えました。私が国展に出品して35年程たちます。その頃の中部地区には、鈴木幹二、佐藤宏、いわたきよし、山田信久氏らが会員として活躍されていました。米倉棄民、廣江嘉郎、成田光二氏らは私と同時期に出品し始めておりました。その后、吉川房子、沼田豊彦、澄和子、土屋敦資、畑涼一、我妻正史、相滓千鶴子氏らがつづいています。
 現在中部地区では、会員10名、準会員9名といつの問にか大世帯になりました。版種別でいえば木版13名、シルク3名、銅版2名、CG1名と各種ですが、やはり木版が圧倒的に多くを占めている。これはこの地方の木版の草分け的存在である「版画五人展」にその源があると思っています。前述の鈴木、佐藤両氏に木下富雄氏(日本版画協会)と岩田覚太郎氏(日本版画協会)、佃政道氏(水彩協会)の五人のグループである。木下氏を除く四氏が、40年程前にこの地方で木版教室の講師をされたのが大きかったと思っています。そこから派生し次の世代に移って、羽多野豊子、豊田素子、川口満、真田芳子、大隅東也、塚原明博、佐藤豊子、末平博子氏ら多くの人が国展に出品され、シルクの鬼頭幸三氏と共に準会員に名を連ねています。

ohara-work

鈴木幹二 作品1504 13.5×18cm 1975

更にそのルーツをたどれば、昭和3年に愛知県知多半島の亀崎小学校へ、平塚運一氏が計6回も本版画の講習に来られ、そこで一番熱心に受講されたのが、五人展の岩田覚太郎氏である。その岩田氏に木版画の手ほどきを受けた私は平塚先生の孫弟子ということになり、国展との誠に不思議な縁を感じるのであります。

(三重県四日市市在住)

 

 

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