栄光のOB


活躍した嘗ての会員OBを思う・・・

第1回 梅原龍三郎第2回 宇治山哲平第3回 香月 泰男第4回 小牧源太郎第5回 須田 剋太
第6回 伊藤 廉第7回 松田 正平第8回 川口 軌外第8回 川口 軌外第9回 里見勝蔵
第10回 庫田 叕第11回 宮 芳平第12回 久保 守第13回 佐藤 哲三・・・・・・・・



第14回 国松 登

国松 登  KUNIMATSU Noboru  1907-1994


「アラベスクな風景」
1941年
北海道立近代美術館蔵



「眼のない魚」1954年
北海道立近代美術館蔵


「氷上のひと・氷人シリーズ」
1981年
札幌芸術の森美術館蔵

国松 登 先生のこと

 国松 登先生(1907— 1994 明治40−平成6) は北海道函館市に生まれ、小樽市を経て札幌市宮の森にアトリエを構え創作活動を続けられました。 1938年(昭和13)第13回国画会展に出品し、1939年(昭和14)第14回国画会展で国画褒状を、1940年(昭和15)第15回国画会展「寝園獣走」で国画会賞受賞、1941年(昭和16)第16回国画会展で「アラベスクな風景」を発表、1942年(昭和17)第17 回国画会展で岡田賞を受賞し、同人(会員)に推挙されています。これら戦前の代表作は現在、北海道立近代美術館に所蔵され常設展示室で鑑賞することができます。

 1945年(昭和20)は東京大空襲で戦争が一段と激しくなり、国画会展は開催不能になり、ようやく戦争が終わった1946年(昭和21)第20回国画会展から再開されました。
 先生が戦中、戦後の激しい時代、一貫して国画会展に作品を発表し続けてこられたということは大変なことだと心から思います。

 先生の画業は戦前と戦後数年間続く「眼のない魚」シリーズと、その後の「氷人」 シリーズとに大きく変遷されたことがわかります。戦後から始まる「眼のない魚」シリーズの作品からは、じっと深海の中で今を耐え、飛躍の時を待つ精神力と内に秘められた生命のエネルギーを感じるとともに、芸術の未来を暗示させる重要なメツセ一ジをいただいていることを感じます。先生ご自身「眼のない魚なんて・・・作品は売れるものじゃないよね。戦後、ぼくは何年かは静かに海に潜っていたんだよ・・・」とおっしゃっていました。自ら信じる芸術の道をひたすら探求されていたことが分かります。

 また、「氷人」シリーズは私たちの世代が一番目にしてきた作品で、1960年(昭和35)第35回国展以降に発表されました。先生は「厳冬のオホーツク海に旅したとき、流氷がおしよせ、月のあかりの中にあたかも男女が抱擁しているような光景に遭遇してとても感動した。それをきっかけに氷像・雪原・人間・動物などをモチーフにして作品を描くようになった」と述べておられました。自らをとりまく大自然やその様々な体験を通して、北方のロマンとノスタルジーに満ちた、透明で構築された造形は、静寂さの中に奥深く美しい世界を表現されており、これらの作品は人間愛・動物愛を根底にした先生独自の宇宙を創造されていると思います。

 私自身は満1歳の時、終戦を迎えた、いわゆる戦後の教育の中で育てられた人間ですが、国松先生は戦前の暗く、重苦しくそれこそ黒く塗りつぶされた教科書の時代を経ており、戦後の自由で穏やかな社会を誰よりも強く感じられたのだと思います。それら時代の変遷の中でこれら「眼のない魚」 や「氷人」シリーズを通して我々に平和の尊さ、愛の深さを訴えてこられたのではないでしょうか。

 先生は北海道教育大学札幌校の集中講義や市内の絵画教室で指導された折りや、上野精養軒における国展の懇親会などでよく手品を披露されました。穴の空いた千円札が一瞬にしてピン札になったり、耳や身体からタバコが出て来たり・・・。「これ以上やったら専売公社に怒られるから・・・。」といつもニコニコ心から楽しんでおられました。タネの多くはアメ横で手に入れていたのかもしれません。
 あるとき私が「先生は作家の中で最も関心のあるひとはどなたですか?」とおたずねしたところ『マリー・ローランサンが好きだ!』とお答えになりました。これは先生の手品のーつかな・・・とびっくりしたことを懐かしく思い出しております。

【掲載画像】
アラベスクな風景<1941年>北海道立近代美術館蔵
眼のない魚(A)<1954年>北海道立近代美術館蔵
氷上のひと・氷人シリーズ<1981年>札幌芸術の森美術館蔵

文責/絵画部会員 山本勇一

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