活躍した嘗ての会員OBを思う・・・
第1回 梅原龍三郎・第2回 宇治山哲平・第3回 香月 泰男・第4回 小牧源太郎・第5回 須田 剋太
第6回 伊藤 廉・第7回 松田 正平・第8回 川口 軌外・第8回 川口 軌外・第9回 里見勝蔵
第10回 庫田 叕・第11回 宮 芳平・第12回 久保 守・第13回 佐藤 哲三・・・・・・・・
国松 登 KUNIMATSU Noboru 1907-1994 | |||
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国松 登 先生のこと 1945年(昭和20)は東京大空襲で戦争が一段と激しくなり、国画会展は開催不能になり、ようやく戦争が終わった1946年(昭和21)第20回国画会展から再開されました。 先生の画業は戦前と戦後数年間続く「眼のない魚」シリーズと、その後の「氷人」 シリーズとに大きく変遷されたことがわかります。戦後から始まる「眼のない魚」シリーズの作品からは、じっと深海の中で今を耐え、飛躍の時を待つ精神力と内に秘められた生命のエネルギーを感じるとともに、芸術の未来を暗示させる重要なメツセ一ジをいただいていることを感じます。先生ご自身「眼のない魚なんて・・・作品は売れるものじゃないよね。戦後、ぼくは何年かは静かに海に潜っていたんだよ・・・」とおっしゃっていました。自ら信じる芸術の道をひたすら探求されていたことが分かります。 また、「氷人」シリーズは私たちの世代が一番目にしてきた作品で、1960年(昭和35)第35回国展以降に発表されました。先生は「厳冬のオホーツク海に旅したとき、流氷がおしよせ、月のあかりの中にあたかも男女が抱擁しているような光景に遭遇してとても感動した。それをきっかけに氷像・雪原・人間・動物などをモチーフにして作品を描くようになった」と述べておられました。自らをとりまく大自然やその様々な体験を通して、北方のロマンとノスタルジーに満ちた、透明で構築された造形は、静寂さの中に奥深く美しい世界を表現されており、これらの作品は人間愛・動物愛を根底にした先生独自の宇宙を創造されていると思います。 私自身は満1歳の時、終戦を迎えた、いわゆる戦後の教育の中で育てられた人間ですが、国松先生は戦前の暗く、重苦しくそれこそ黒く塗りつぶされた教科書の時代を経ており、戦後の自由で穏やかな社会を誰よりも強く感じられたのだと思います。それら時代の変遷の中でこれら「眼のない魚」 や「氷人」シリーズを通して我々に平和の尊さ、愛の深さを訴えてこられたのではないでしょうか。 先生は北海道教育大学札幌校の集中講義や市内の絵画教室で指導された折りや、上野精養軒における国展の懇親会などでよく手品を披露されました。穴の空いた千円札が一瞬にしてピン札になったり、耳や身体からタバコが出て来たり・・・。「これ以上やったら専売公社に怒られるから・・・。」といつもニコニコ心から楽しんでおられました。タネの多くはアメ横で手に入れていたのかもしれません。 【掲載画像】 |
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文責/絵画部会員 山本勇一 |