栄光のOB

活躍した嘗ての会員OBを思う・・・

第1回 梅原龍三郎 第2回 宇治山哲平 第3回 香月 泰男 第4回 小牧源太郎 第5回 須田 剋太 第6回 伊藤 廉
第7回 松田 正平 第8回 川口 軌外 第9回 里見勝蔵 第10回 庫田 叕 第11回 宮 芳平 第12回 久保 守



第8回 川口 軌外

川口軌外  KAWAGUCHI, Kigai  1892 - 1966
異影 91.0×61.0cm 1953年
第27回国展出品作品(東京都美術館 1953)
東京国立近代美術館所蔵

解説 : 画題は稍々解説的なきらいはあるが、それにとらわれないでほしいと思う。 「異なった影」という意味は、相異なった形が向い合っているということで、 それは絵の解説にもならないし、また理解への画題でもない。こうした絵の 発想は説明し難いものだ。多分観る人も説明のつかない感覚による外はないと思う。
 さて、セザンヌの林檎はなぜよいのか、よく描けているという意味は自然 に似ていることでもなく、構図は実に立派であるという意味だけでもない。 絵から来る感覚は或る明確なものによって答えてくれる。それは林檎では なく、静物でもないセザンヌ自身の答えのみ強くうったえてくる。
 抽象画の本質的な考えかたは、何を描いているかが問題ではない。 しかし答えを、それのみ明確なる答えを必要とする。厳密な抽象的創造は、 自然の均衡と秩序をうしなうことではない。
● 川口軌外の印象  川口軌外は第21回国展から第35回国展(出品は32回展)まで国画会で活躍した作家。 しかしながら、今日、川口軌外を直接知る者が、国画会にいない為、今回は、川口自身 による第27回国展出品作「異影」の解説と、数名の会員による川口の印象、そして、略史 により川口軌外の足跡をたどってみたいと思う。


● 会員談話

島田章三会員 談
「川口軌外先生は、東京のどこかの研究所で(注 : 国画会研究所)熱心に指導をされていた」

大沼映夫会員 談
「新宿の下落合(中井)に住んでいて時々家の前を通ると身が引き締まる思いをした。」
「川口先生は、国画会研究所で教えていていました。ある日、石膏像のブルータスを描いていて、 ブルータスは後頭部に凹みがあり、上手く描けないでいると、川口先生は、「こうやって描くんです」 と、へこみを省略したのです。こんなこと美術学校では教えてくれないよ。この言葉今でもハッキリ 耳にのこっている。一般的なきっちり描く方法を批判した表現でした。

小原キク会員 談
「最近は画一的な画家が多くなってきたが、いわゆる作家肌でひとつのことに執着すると、 とことん追求する方であった。先輩や仲間に媚をうらず、俗っぽさがかけらもなかった。 とっつきやすい方ではなかったが、寡黙で孤高な方だった。国画会では別格的存在だった」

山寺重子会員 談
「軌外先生は国展に第21回展から第35回展までいらしたので私はお偉い先生ということだけで あまり存じあげることはございませんでした。ただ、主人は学生時代に可愛がっていただいたようで 折にふれて、軌外先生の人間味溢れる人となりを話してくれました。
なかでもデッサンのスピードと的確さは抜群で素晴しい作品を拝見させていただいたようです。
夏、鎌倉七里ケ浜海岸へよくお供したとのこと。先生は泳ぎに行く目的ではなく、 すぐさまスケッチブックを広げられる。『シャワーを浴びる女性はこちらがポーズをつけなくても いろいろな姿態をとってくれるから実に面白い』とおっしゃって瞬時に力動的なデッサンを何枚も 仕上げられるのを拝見して驚愕してそうです。帰りには必ず何か御馳走して下さって意味深い人生訓等を教えていただいたようです。 『先生の骨太の力のこもった作品は皆好きだが、この作品(樹間と鳥-第3回現代日本美術展出品作) は先生の絵画的な思考が良く工夫されていて殊に好きだ』と主人は申しておりました。

 

 

川口軌外・略年譜
明治25年   0歳   11月10日、和歌山県有田郡御霊村(現:有田川町)に川口喜右衛門の三男として生まれる。
(1892) 母こいと、本名は孫太郎。
明治33年 8歳 御霊尋常小学校入学。
(1900)
明治36年 11歳 父喜右衛門死去(66才) 孫太郎が家督相続をする。
(1903)
明治37年 12歳 御霊尋常小学校卒業。
(1904) 田殿高等小学校高等科に進学。
明治39年 14歳 田殿高等小学校高等科卒業。
(1906) 吉備実業学校に入学。
明治41年 16歳 吉備実業学校中退。
(1908)
明治42年 17歳 和歌山県師範学校に入学。美術部に入り熱心に水彩画を描く。
(1909)
明治44年 19歳 斉藤与里らによる水彩画の夏期講習が奈良と和歌山で開かれ、軌外は両方に参加
(1911) 西欧近代美術に対する目を開かれ油絵をはじめる。
明治45年 20歳 洋画家を志して上京、太平洋画会研究所に入所して中村不折に師事。
(1912) 小島善太郎らがいた。
明治46年 21歳 和歌山県師範学校に復学を勧告されたがこれを拒絶し、放校処分に付される。
(1913)
大正3年 22歳 日本美術院洋画部へ移り、小杉未醒に師事。村山槐多らがいた。
(1914)
大正5年 24歳 戸井田忍を知り、結婚生活に入る。 友人と和歌山市で南紀洋画展を開催。
(1916)
大正6年 25歳 第4回二科展に「静物」が初入選する。間もなく安井曽太郎に私淑する。
(1917)
大正7年 26歳 長男京村生まれる。この頃、渡仏を決意してアトリエを処分。
(1918)
大正8年 27歳 家族を伴い郷里に帰る。
(1919) 母こいと死去(62才)
日本郵船?あけぼの丸?で神戸出帆、単身フランスに留学、イタリア、スペインなどを旅行する。
大正9年 28歳 パリ着。 この年、イタリア旅行。ラファエロ、ティツィアーノ等の模写をする。
(1920)
大正10年 29歳 安井曽太郎の紹介で里見勝蔵を知り親交を結ぶ。
(1921) この頃、ヴラマンクを知る。スペインに旅行。
大正11年 30歳 第9回二科展に「少女とミモザの花」「トアレット」「静物」「風景1、2」を出品。
(1922) ルノアールの感化が著しい作品だった。
大正12年 31歳 帰国。
(1923)
大正13年 32歳 大阪商船?巴里丸?で神戸出帆、家族を伴い再渡仏する。
(1924) 佐伯祐三、小島善太郎、前田寛治、中山巌、里見勝蔵と親交を結ぶ。
次男巴里村が生まれたが生後20余日で死亡。
この頃フォービズムやキュビズムの影響を受けた制作がはじまる。
大正14年 33歳 アンドレ・ロートの研究所に学ぶ。
(1925) ロート風の作品を描く一方、フォーブ風の静物画も描いている。
大正15年 34歳 シャガールを訪問。
(1926) フェルナン・レジェに師事し、作風はしだいに構成的になる。
モディリアーニやデュフィ等にも多様な関心を示す。
昭和2年 35歳 「キャフェにて」「寺院」「写像」等多彩な制作期に入る。
(1927)
昭和3年 36歳 フランスより第15回二科展に「ボヘミアン」「静物」を出品。
(1928)
昭和4年 37歳 帰国。第16回二科展に「車のある風景」「寺院」「坐せる女」「キャフェにて」など10点を
(1929) 特別出品し、二科賞を受賞する。
この年奈良、京都を盛んに旅行し東洋古美術の抽象的構成に新しい美を見出す。
昭和5年 38歳 1930年協会に会員として加わり第5回展に滞欧作29点を出品。
(1930) 第17回二科展に「月空」「静物」「ビワの実」を出品、二科会会友となる。
長女嘉子生まれる。
独立美術協会結成に当たり二科会会友を辞退し創立会員として参加。
昭和6年 39歳 第1回独立展に「詩思」「智」「マンドリン」「写像」「智」「ビワの実」「ツボ」「ベトイユ」
(1931) 「小品」「黄壁」を出品。
昭和7年 40歳 第2回独立展に「コンポジション(地維)」「陽炎」「スブニール」「静物」「花」を出品。
(1932)
昭和8年 41歳 第3回独立展に「柘榴」「牡丹花園」「月夜の雪景」「花束」を出品。
(1933)
昭和9年 42歳 第4回独立展に「少女と貝殻」「蓮」「瀞峡」を出品。
(1934)
昭和10年 43歳 第5回独立展に「鸚鵡と少女」「貝殻」「無題」「花」を出品。
(1935) 京都朝日会館の壁画を伊藤廉、林重義と描く。
昭和11年 44歳 第6回独立展に「白蓮」「浴女」「貝殻」を出品。
(1936)
昭和12年 45歳 第7回独立展に「エスキースA」「エスキースB」「偶感A」「偶感B」を出品。
(1937)
昭和13年 46歳 第8回独立展に「花と少女」「小品」「群鳥」「静物」を出品。
(1938)
昭和14年 47歳 第9回独立展に「魚商」「群鳥」「二婦」「花商」を出品。
(1939)
昭和15年 48歳 第10回独立展に「女と花」「少女とバラ」「風景ーモントバン」「夏の海」
(1940) 「花と少女」「構図」「海水浴」を出品。
紀元2600年奉祝展に「熊野灘」を出品。
昭和16年 49歳 第11回独立展に「漁夫A」「漁夫B」「ダリア」「柘榴」を出品。
(1941)
昭和17年 50歳 第12回独立展に「花と果物」「桃」「牡丹」を出品。
(1942) 川口軌外画集刊。
昭和18年 51歳 第13回独立展に「海」「ひまわり」「漁夫」「静物」を出品。
(1943) これを最後に独立美術協会会員を辞す。
昭和20年 53歳 和歌山県の郷里に疎開し、専ら野菜、果実などの静物画を描く。
(1945)
昭和22年 55歳 国画会会員に迎えられ、第21回国展に「ビワ」「桃(A)」「柘榴」「静物」「桃B」を出品。
(1947)
昭和23年 56歳 第22回国展に「花」「女」を出品。
(1948)
昭和24年 57歳 第23回国展に「花」「菊と婦人」を出品。
(1949)
昭和25年 58歳 第24回国展に「果物と花」「室内」を出品。
(1950) 第4回美術団体連合展に「光」を出品。和歌山より上京する。
この頃から毎年夏に出かけ、海辺の群像が重要なモチーフとなる。
昭和26年 59歳 第2回選抜秀作美術展に「習作」を出品。
(1951) 第25回国展に「月」「人」を出品。
第5回美術団体連合展に「鳥と子供」を出品。
独立美術協会20周年記念展に「マンドリン」「鸚鵡と少女」を出品。
展覧会終了後、東京都美術館で「マンドリン」が紛失する。
昭和27年 60歳 「マンドリン」が東京都美術館の第1倉庫から発見される。
(1952) 第3回選抜秀作美術展に「花」を出品。
第26回国展に「油送船」「コンポジション」「花」を出品。
第1回日本国際美術展に「鳥の情態」「花と裸婦」「静物」を出品。
第26回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に「少女と貝殻」を出品。
昭和28年 61歳 第27回国展に「製油所ト船」「異影」「群像」を出品。
(1953) 第2回日本国際美術展に「日傘と人」「作品」を出品。
日本アブストラクト・アートクラブに加わる。
第4回選抜秀作美術展に「花と裸婦」を出品。
第2回サンパウロ国際ビエンナーレ展に「夏の浜」「静物」「作品」「集団」を出品。
ニューヨーク・アブストラクト・アーチスト展に「群像」「作品」「集団」「製油所ト船」を出品。
昭和29年 62歳 第28回国展に「円」「港の朝」「作品」を出品。
(1954) 第1回現代日本美術展に「円」「製油所の港」を出品。
第1回サンシュマン展。
昭和30年 63歳 第29回国展に「作品A・B・C」を出品。
(1955) 第3回日本国際美術展に「水浴する人たち」「夏の浜にて」を出品。
第2回サンシュマン展に「作品」を出品。
昭和31年 64歳 第30回国展に「群像」「構図」を出品。
(1956) 第2回現代日本美術展に「集団」「人体」を出品。
この頃より雅号を軌厓と名乗る。
昭和32年 65歳 第31回国展に「人体」「港」を出品。(川口軌厓名義で出品)
(1957) 第4回日本国際美術展に「人体」を出品。
現代美術10年の傑作展に「港の朝」(第28回国展)を出品。
昭和33年 66歳 第32回国展に「鳥と樹」「作品」を出品。(川口軌厓名義で出品)
(1958) 第3回現代日本美術展に「樹間と鳥」を出品。
第5回サンシュマン展に「静物」「夏の浜辺」を出品。
神奈川県立近代美術館において <川口軌厓・脇田和展> 開催される。
昭和34年 67歳 以降、国展への出品をしていない。
(1959) 第5回日本国際美術展に「三つのポーズ」を出品。
第6回サンシュマン展に「静物」「顔」を出品。
明治・大正・昭和3代名作展に「花束」(第3回独立展)を出品。
第10回選抜秀作美術展に「樹間と鳥」を出品。
昭和35年 68歳 第4回現代日本美術展に「水浴の人たち」「作品」(水浴の人)を出品。
第7回サンシュマン展に「鳥」「器」を出品。
(1960) この頃、健康を害する。
昭和36年 69歳 第6回日本国際美術展に「作品」を出品。
第8回サンシュマン展に「人々」「群像」を出品。
(1961) 7月、国画会会員を辞す。
昭和37年 70歳 第5回現代日本美術展に「群像」「顔のある木」を出品。
第9回サンシュマン展に「静物」「二人」「百合花と女」を出品。
(1962) 脳軟化症におかされ半身不随となる。
昭和38年 71歳 第7回日本国際美術展に「鳥」を出品。
(1963) 第10回サンシュマン展に「静物」を出品。
昭和39年 72歳 第6回現代日本美術展に「森の中」「人」を出品。
(1964) 第11回サンシュマン展に「静物」「静物とマスク」を出品。
第1回和歌山県民文化賞を受賞。
昭和40年 73歳 第12回サンシュマン展に「潮岬」「瀞峡」を出品。
(1965)
昭和41年 74歳 「国画会40年の展望」展に「月」(第25回国展)を出品。
(1966) 第13回サンシュマン展に「京都の庭」を出品。
6月5日午前0時5分、脳軟化症のために死去。享年73才。


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