栄光のOB

活躍した嘗ての会員OBを思う・・・

第1回 梅原龍三郎 第2回 宇治山哲平 第3回 香月 泰男 第4回 小牧源太郎 第5回 須田 剋太 第6回 伊藤 廉
第7回 松田 正平 第8回 川口 軌外 第9回 里見勝蔵 第10回 庫田 叕 第11回 宮 芳平 第12回 久保 守



第9回 里見 勝蔵

里見勝蔵  SATOMI Katsuzo  1895-1981


ラ・トゥルイエール 97.2cmx116.7cm 1966年
第40回国展出品作品 盛岡市役所所蔵



女の顔  101.5cmx60.5cm 1976年
第50回国展出品作品 京都国立近代美術館蔵

● 里見勝蔵の印象  里見勝蔵は1954年(第28回展)に小泉清(小泉八雲の三男)と共に会員として入会した。 翌年から1958年まで渡欧し、1959年(第33回展)から1981年(第55回展)の亡くなる年まで、 途中不出品の年も二回あったが、国画会の中では、フォーピズムの巨匠しての存在感を 存分に発揮されていたようだ。今回も会員数名の談話を紹介する。


●会員談話

野田好子会員 談
「里見勝蔵先生はフォービズムの巨匠である。ものすごくエネルギッシュで、ご自身の生活も フォーブそのもの、画家仲間の日常をライオンの如く疾走する大家であろうと想像して居た私 でした。事実三岸節子先生のお話なぞでは、それを彷彿されるものでした。 国展で里見先生をお見かけした時、気風の違う国展にどうしてお入りなされたのかと、 不思議に思いました。黒眼鏡の横に巻毛が一寸のぞき、小柄で軽快で想像より大変違って いらっしゃいました。お話を伺ってみたいと思いながらその機会はありませんでした。

木村正会員 談
「赤や緑、黄色等、原色の絵具を叩きつけたような烈しい表現の裸婦がこちらを見つめている。 眼球がキラリと光る。先生はベレー帽にチェックのブレザー。襟元にスカーフ。声を溜めたような 話し方。眼球の奥の目は先生の裸婦のようにキラリ。五十年も前の先生の印象です。

小原キク会員 談
「1956年(昭和31年)初入選の折に先生のお姿をお見かけしました。50数年前の事で新人出品者 の頃でした。ブラマンクのまな弟子でフォービズムの大家であると会員の方よりきいておりました。 パリから帰国されチェックのハンチング、オリーブとブラウン色柄の三つ揃いの服装であの頃では 大変粋な紳士で颯爽と歩いていられる姿を会場・上野公園等でお見かけしました。私達若い者には まぶしい存在でした。挨拶程度しかお話ししませんでした。"君の名は"ときかれる程度だったと 思います。思い出し乍ら国画のよき-時代であったと思います。

山寺重子会員 談
「あれはいつの頃であったかさだかではないが、水野先生と御一緒に里見勝蔵先生のお宅へ お伺いしたことがあった。その頃は鎌倉山の棟方版画美術館の至近距離にあったように記憶 している。お玄関に入るなりあっと驚いた。上がり框から廊下、隅からすみまでところ狭しと大小 のキャンバスがたてかけてあった。先生のいらっしゃるところまで体を斜めにしなければ辿りつけ なかった。私がお目にかかったとはきもう八十才になられたころで、おぐしの方は少なくて、 でもお話は闊達で口すぼめてホッホッホとお笑いになるのが印象的であった。 お酒はお好きとのこと、持参したお酒を差し上げると嬉しそうに「このままでは飲めないのよ 叱られるからお湯で薄めてお湯割りなのよ、酒は離せない」と口をすぼめて猪口に口をもって いかれた。今ではいろいろな飲物でお酒を割るので珍しくないが、その頃はこういうこともあるの だと妙に納得した。後日、山崎隆夫先生にこのことをお話ししたら「ジントニックをお茶で割るのよ、 茶人だよ」とすましておられた。 昭和57年、神奈川鵠展を立ち上げた。里見勝蔵、益田義信、山崎隆夫、島内キミ、 養田つや子諸先生お揃いで賑やかな幕開けとなった。 里見先生は三回目位まで御出品になられたが、お体が大分弱られていたのに若手のために、 無理をして下さったように思う。 戦前のブラマンクばり素晴らしいご活躍を目にしなかったのは残念でならない。私が鎌倉のお宅に お伺いした頃は、世評に背を向けて孤高の姿勢をとられた頃で、先生が口をすぼめてホッホッホ とお笑いになせれたことが四十年経た今でも忘れられない。

 

 

里見勝蔵 略年譜
明治28年
(1895)
  0歳   6月9日、京都の四条高倉西入ル長刀鉾町北側(現在の大丸百貨店付近)に医師里見時三・つぎの五男二女の四男として生まれる。
明治35年
(1902)
7歳 京都市開智小学校に入学。
明治36年
(1906)
11歳 京都市第二高等小学校に入学。
明治37年
(1913)
13歳 京都府第二中学校(現京都府洛南高校)に入学。
大正2年
(1913)
18歳 京都府第二中学校を卒業。
関西美術院に入り鹿子木孟郎に洋画を学ぶ
大正3年
(1914)
19歳 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入学。
同級に、宮坂勝、武井武雄、中山巌等がいた
大正6年
(1917)
22歳 第4回二科展に〈職工〉が、第4回再興日本美術院展に〈下浜の風景〉が入選。
大正8年
(1919)
24歳 東京美術学校を卒業し、京都に帰る。
大正9年
(1914)
25歳 京都で紐問屋を営んでいた大津市の水谷岩三郎・マツの長女キヌと結婚。
大正10年
(1921)
26歳 父・時三死去。
神戸からフランスへ向けて出航する。パリでは川口軌外の出迎えを受ける。モーリス・ドニの指導を受ける。
オーヴェル・シュル・オワーズに出かける。制作合間に、ゴッホの墓に参ったり、ゴッホが描いた景色、建物などを確認。
写生中、偶然出会ったヴラマンクに指導を受け、以後、彼の影響を強く受ける。
エクスでは、セザンヌ未亡人を訪ね、カーニュでは、砧伊之助、小出楢重、川口軌外とルノワールの家を訪ねる。
大正11年
(1922)
27歳 友人に書き送った手紙が「ゴオホに関する通信」として『白樺』第13巻1号に掲載される。
中山巌をヴラマンクに紹介する。
川口軌外が住んでいたシテ・ファルギエールのアトリエに転居する。
大正12年
(1923)
28歳 前田寛治をゴッホの墓に案内し、ヴラマンクに紹介する。
アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・シミエールで学ぶ。
大正13年
(1924)
29歳 パリのドリュエ画廊のルオー展を見て感激する。
佐伯祐三をヴラマンクに紹介する。
大正14年
(1925)
30歳 パリのゴッホ展、ユトリロ展に感激する。
帰国し、京都市の母の実家に寄寓して、滞欧作品の仕上に取り掛かる。
第12回二科展に滞欧作《マリーヌの記念》など7点を出品し、樗牛賞を受賞する。
里見勝蔵滞欧記念油絵展覧会を京都府岡崎図書館で開催する。
大正14年
(1925)
31歳 上京し、下落合(現東京都新宿区下落合4丁目24)に転居する。
近くには、曽宮一念、佐伯祐三、前田寛治、宮坂勝、伊藤廉らが居住していた。
木下孝則、児島善太郎、佐伯祐三、前田寛治とともに「1930年協会」を設立し、 第1回展を室内社画堂で開催する。
昭和2年
(1927)
32歳 第14回二科展で二科賞を受賞し、二科会会友となる。
昭和4年
(1929)
34歳 井萩(現東京都杉並区下井草5丁目16)にアトリエを新築し、転居する。
古賀春江、児島善太郎とともに二科会会員に推挙されたため、1930年協会を退会する。
昭和5年
(1930)
35歳 伊藤廉、川口軌外、児島善三郎、小島善太郎、清水登之、鈴木亜夫、鈴木保徳、中山巌、林重義、林武ら10名の同志と二科会を脱会し、春陽会の三岸好太郎、国画会の高畠達四郎を加えた13名で独立美術協会を設立する。
作品集「里見勝蔵画集」が建設社から刊行される。
昭和6年
(1931)
36歳 独立美術協会第1回展を東京府美術館で開催する。
「女-独立記念」など8点を出品する。
昭和11年
(1936)
41歳 随筆集「異端者の奇跡」が龍星閣から刊行される。
昭和12年
(1929)
42歳 独立美術協会内のシュールレアリズム的傾向、あるいは新日本主義的な傾向に反発して、林重義、伊藤廉、曽宮一念に続いて、独立美術協会を脱退する。
昭和14年
(1930)
44歳 独立美術協会を脱退した林重義、伊藤廉、曽宮一念とともに「霜林会」を結成し、資生堂ギャラリーで第1回展を開く。
昭和17年
(1942)
47歳 随筆集「赤と緑」が昭森社から刊行される。
昭和22年
(1947)
52歳 銀座のシバタギャラリーで個展を開く。
昭和20年
(1948)
53歳 随筆集「画魂」が大丸出版社から刊行される。
昭和25年
(1950)
55歳 アルス美術文庫「ヴラマンク」がアルス社から刊行される。
別冊アトリエ第4集「回想のヴァン・ゴーグ」がアトリエ出版社から刊行される。
昭和28年
(1953)
58歳 美術雑誌アトリエ「セザンヌの研究」がアトリエ出版社から刊行される。
昭和29年
(1954)
59歳 小泉清とともに国画会に会員として入会する。しかし、里見勝蔵は1954年〜
(1954) 58年の間渡欧するため不出品となる。
ルィユ・ラ・ガトリエールのヴラマンクを訪ね、30年振りに再会する。
昭和34年
(1959)
64歳 第33回国画会展に「イビザの岩山」「ルイユの家」など7点を出品。
昭和35年
(1960)
65歳 第34回国画会展に「グラナダの郊外」を出品。
昭和36年
(1961)
66歳 第35回国画会展に「峡谷」を出品。
相模湾が一望できる鎌倉山(現鎌倉市鎌倉山2丁目18-38)に転居する。
昭和37年
(1962)
67歳 友人で画家の小泉清が自殺。(61歳)
第36回国画会展に「イビザの田野」を出品。
昭和38年
(1963)
68歳 第37回国画会展に「IBIZAの海岩」「イル・ド・フランス」を出品。
昭和39年
(1964)
69歳 第38回国画会展に「ヴァルモンドア」を出品。
昭和40年
(1965)
70歳 第39回国画会展に「道」「花」を出品。
昭和41年
(1966)
71歳 第40回国画会展に「ラ・トゥルイエール」を出品。
「国画会40年の展望」展に「道」(第39回国展)を出品。
昭和42年
(1967)
72歳 第41回国画会展に「ペール・ギランの家」を出品。
昭和43年
(1968)
73歳 第42回国画会展に「オーベルの農家」を出品。
日本橋三越で里見勝蔵第1回自選展を開く。
昭和44年
(1969)
74歳 第43回国画会展に「ノルマンディ風景」を出品。
昭和45年
(1970)
75歳 第44回国画会展に「農家」を出品。
昭和46年
(1971)
76歳 第45回国画会展に「ベアトリス」を出品。
昭和47年
(1972)
77歳 第46回国画会展に「女の顔」を出品。
フォーヴに基づいた新しい写実絵画を求めて、同志と「写実画壇」結成。
昭和48年
(1973)
78歳 第47回国画会展に「吾子(アコ)」を出品。
第1回写実画壇展を上野の森美術館で開催し、「女の顔」など3点を出品。
昭和49年
(1974)
79歳 第48回国画会展に「イビザの山野」を出品。
昭和50年
(1975)
80歳 第49回国画会展に「千」を出品。
昭和51年
(1976)
81歳 第50回国画会展に「女の顔」を出品。
昭和52年
(1977)
82歳 第51回国画会展は不出品。
昭和53年
(1978)
83歳 第52回国画会展は不出品。
画集「里見勝蔵作品集」が読売新聞社から刊行される。
昭和54年
(1979)
84歳 第53回国画会展に「顔」を出品。
昭和55年
(1980)
85歳 第54回国画会展に「顔」を出品。
昭和56年
(1981)
  第55回国画会展に「顔」を出品。
心筋梗塞のため鎌倉山の自宅で死去。(85歳)


BACK