第1回 梅原龍三郎 | 第2回 宇治山哲平 | 第3回 香月 泰男 | 第4回 小牧源太郎 | 第5回 須田 剋太 | 第6回 伊藤 廉 |
第7回 松田 正平 | 第8回 川口 軌外 | 第9回 里見勝蔵 | 第10回 庫田 叕 | 第11回 宮 芳平 | 第12回 久保 守 |
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里見勝蔵 SATOMI Katsuzo 1895-1981 | ||
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![]() ラ・トゥルイエール 97.2cmx116.7cm 1966年 第40回国展出品作品 盛岡市役所所蔵 |
![]() 女の顔 101.5cmx60.5cm 1976年 第50回国展出品作品 京都国立近代美術館蔵 |
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● 里見勝蔵の印象
里見勝蔵は1954年(第28回展)に小泉清(小泉八雲の三男)と共に会員として入会した。
翌年から1958年まで渡欧し、1959年(第33回展)から1981年(第55回展)の亡くなる年まで、
途中不出品の年も二回あったが、国画会の中では、フォーピズムの巨匠しての存在感を
存分に発揮されていたようだ。今回も会員数名の談話を紹介する。 | ||
●会員談話 野田好子会員 談 木村正会員 談
小原キク会員 談
山寺重子会員 談 |
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明治28年 (1895) |
0歳 | 6月9日、京都の四条高倉西入ル長刀鉾町北側(現在の大丸百貨店付近)に医師里見時三・つぎの五男二女の四男として生まれる。 | ||
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明治35年 (1902) |
7歳 | 京都市開智小学校に入学。 | ||
明治36年 (1906) |
11歳 | 京都市第二高等小学校に入学。 | ||
明治37年 (1913) |
13歳 | 京都府第二中学校(現京都府洛南高校)に入学。 | ||
大正2年 (1913) |
18歳 |
京都府第二中学校を卒業。 関西美術院に入り鹿子木孟郎に洋画を学ぶ |
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大正3年 (1914) |
19歳 |
東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入学。 同級に、宮坂勝、武井武雄、中山巌等がいた |
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大正6年 (1917) |
22歳 | 第4回二科展に〈職工〉が、第4回再興日本美術院展に〈下浜の風景〉が入選。 | ||
大正8年 (1919) |
24歳 | 東京美術学校を卒業し、京都に帰る。 | ||
大正9年 (1914) |
25歳 | 京都で紐問屋を営んでいた大津市の水谷岩三郎・マツの長女キヌと結婚。 | ||
大正10年 (1921) |
26歳 |
父・時三死去。 神戸からフランスへ向けて出航する。パリでは川口軌外の出迎えを受ける。モーリス・ドニの指導を受ける。 オーヴェル・シュル・オワーズに出かける。制作合間に、ゴッホの墓に参ったり、ゴッホが描いた景色、建物などを確認。 写生中、偶然出会ったヴラマンクに指導を受け、以後、彼の影響を強く受ける。 エクスでは、セザンヌ未亡人を訪ね、カーニュでは、砧伊之助、小出楢重、川口軌外とルノワールの家を訪ねる。 |
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大正11年 (1922) |
27歳 | 友人に書き送った手紙が「ゴオホに関する通信」として『白樺』第13巻1号に掲載される。 中山巌をヴラマンクに紹介する。 川口軌外が住んでいたシテ・ファルギエールのアトリエに転居する。 |
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大正12年 (1923) |
28歳 | 前田寛治をゴッホの墓に案内し、ヴラマンクに紹介する。 アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・シミエールで学ぶ。 |
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大正13年 (1924) |
29歳 |
パリのドリュエ画廊のルオー展を見て感激する。 佐伯祐三をヴラマンクに紹介する。 |
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大正14年 (1925) |
30歳 | パリのゴッホ展、ユトリロ展に感激する。 帰国し、京都市の母の実家に寄寓して、滞欧作品の仕上に取り掛かる。 第12回二科展に滞欧作《マリーヌの記念》など7点を出品し、樗牛賞を受賞する。 里見勝蔵滞欧記念油絵展覧会を京都府岡崎図書館で開催する。 |
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大正14年 (1925) |
31歳 | 上京し、下落合(現東京都新宿区下落合4丁目24)に転居する。 近くには、曽宮一念、佐伯祐三、前田寛治、宮坂勝、伊藤廉らが居住していた。 木下孝則、児島善太郎、佐伯祐三、前田寛治とともに「1930年協会」を設立し、 第1回展を室内社画堂で開催する。 |
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昭和2年 (1927) |
32歳 | 第14回二科展で二科賞を受賞し、二科会会友となる。 | ||
昭和4年 (1929) |
34歳 | 井萩(現東京都杉並区下井草5丁目16)にアトリエを新築し、転居する。 古賀春江、児島善太郎とともに二科会会員に推挙されたため、1930年協会を退会する。 |
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昭和5年 (1930) |
35歳 | 伊藤廉、川口軌外、児島善三郎、小島善太郎、清水登之、鈴木亜夫、鈴木保徳、中山巌、林重義、林武ら10名の同志と二科会を脱会し、春陽会の三岸好太郎、国画会の高畠達四郎を加えた13名で独立美術協会を設立する。 作品集「里見勝蔵画集」が建設社から刊行される。 |
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昭和6年 (1931) |
36歳 | 独立美術協会第1回展を東京府美術館で開催する。 「女-独立記念」など8点を出品する。 |
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昭和11年 (1936) |
41歳 | 随筆集「異端者の奇跡」が龍星閣から刊行される。 | ||
昭和12年 (1929) |
42歳 | 独立美術協会内のシュールレアリズム的傾向、あるいは新日本主義的な傾向に反発して、林重義、伊藤廉、曽宮一念に続いて、独立美術協会を脱退する。 | ||
昭和14年 (1930) |
44歳 | 独立美術協会を脱退した林重義、伊藤廉、曽宮一念とともに「霜林会」を結成し、資生堂ギャラリーで第1回展を開く。 | ||
昭和17年 (1942) |
47歳 | 随筆集「赤と緑」が昭森社から刊行される。 | ||
昭和22年 (1947) |
52歳 | 銀座のシバタギャラリーで個展を開く。 | ||
昭和20年 (1948) |
53歳 | 随筆集「画魂」が大丸出版社から刊行される。 | ||
昭和25年 (1950) |
55歳 | アルス美術文庫「ヴラマンク」がアルス社から刊行される。 別冊アトリエ第4集「回想のヴァン・ゴーグ」がアトリエ出版社から刊行される。 |
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昭和28年 (1953) |
58歳 | 美術雑誌アトリエ「セザンヌの研究」がアトリエ出版社から刊行される。 | ||
昭和29年 (1954) |
59歳 | 小泉清とともに国画会に会員として入会する。しかし、里見勝蔵は1954年〜 (1954) 58年の間渡欧するため不出品となる。 ルィユ・ラ・ガトリエールのヴラマンクを訪ね、30年振りに再会する。 |
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昭和34年 (1959) |
64歳 | 第33回国画会展に「イビザの岩山」「ルイユの家」など7点を出品。 | ||
昭和35年 (1960) |
65歳 | 第34回国画会展に「グラナダの郊外」を出品。 | ||
昭和36年 (1961) |
66歳 | 第35回国画会展に「峡谷」を出品。 相模湾が一望できる鎌倉山(現鎌倉市鎌倉山2丁目18-38)に転居する。 |
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昭和37年 (1962) |
67歳 | 友人で画家の小泉清が自殺。(61歳) 第36回国画会展に「イビザの田野」を出品。 |
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昭和38年 (1963) |
68歳 | 第37回国画会展に「IBIZAの海岩」「イル・ド・フランス」を出品。 | ||
昭和39年 (1964) |
69歳 | 第38回国画会展に「ヴァルモンドア」を出品。 | ||
昭和40年 (1965) |
70歳 | 第39回国画会展に「道」「花」を出品。 | ||
昭和41年 (1966) |
71歳 | 第40回国画会展に「ラ・トゥルイエール」を出品。 「国画会40年の展望」展に「道」(第39回国展)を出品。 |
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昭和42年 (1967) |
72歳 | 第41回国画会展に「ペール・ギランの家」を出品。 | ||
昭和43年 (1968) |
73歳 | 第42回国画会展に「オーベルの農家」を出品。 日本橋三越で里見勝蔵第1回自選展を開く。 |
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昭和44年 (1969) |
74歳 | 第43回国画会展に「ノルマンディ風景」を出品。 | ||
昭和45年 (1970) |
75歳 | 第44回国画会展に「農家」を出品。 | ||
昭和46年 (1971) |
76歳 | 第45回国画会展に「ベアトリス」を出品。 | ||
昭和47年 (1972) |
77歳 | 第46回国画会展に「女の顔」を出品。 フォーヴに基づいた新しい写実絵画を求めて、同志と「写実画壇」結成。 |
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昭和48年 (1973) |
78歳 | 第47回国画会展に「吾子(アコ)」を出品。 第1回写実画壇展を上野の森美術館で開催し、「女の顔」など3点を出品。 |
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昭和49年 (1974) |
79歳 | 第48回国画会展に「イビザの山野」を出品。 | ||
昭和50年 (1975) |
80歳 | 第49回国画会展に「千」を出品。 | ||
昭和51年 (1976) |
81歳 | 第50回国画会展に「女の顔」を出品。 | ||
昭和52年 (1977) |
82歳 | 第51回国画会展は不出品。 | ||
昭和53年 (1978) |
83歳 | 第52回国画会展は不出品。 画集「里見勝蔵作品集」が読売新聞社から刊行される。 |
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昭和54年 (1979) |
84歳 | 第53回国画会展に「顔」を出品。 | ||
昭和55年 (1980) |
85歳 | 第54回国画会展に「顔」を出品。 | ||
昭和56年 (1981) |
第55回国画会展に「顔」を出品。 心筋梗塞のため鎌倉山の自宅で死去。(85歳) |