栄光のOB

活躍した嘗ての会員OBを思う・・・

第1回 梅原龍三郎 第2回 宇治山哲平 第3回 香月 泰男 第4回 小牧源太郎 第5回 須田 剋太 第6回 伊藤 廉
第7回 松田 正平 第8回 川口 軌外 第9回 里見勝蔵 第10回 庫田 叕 第11回 宮 芳平 第12回 久保 守



第11回 宮 芳平

宮 芳平  MIYA Yoshihei  1893-1971



「椿(旧題「愛」)」209.0cmx 126.0cm
1914年
第八回文展応募作
安曇野市豊科近代美術館蔵



「黒い太陽」 絶筆 40.5cmx 31.5cm
1967年-1971年
安曇野市豊科近代美術館蔵

●宮 芳平 先生のこと

 ちょうど宮芳平先生のことを調べていた時、今回、絵画部 "栄光のOB" に宮先生を取り上げることが決まり、記事を書くことになった。国画会内でも先生の名前や作品を覚えている現会員は数えるほどになり、ここで、宮芳平先生の人となり作品を紹介することで、これまで紹介した"栄光のOB"とは趣を異にする先輩作家がおられたことを知っていただけたらと思う。
宮先生は、第十五回国展に初出品後、第二十回展から継続して出品され、第三十一回展で会友(現準会員)に、第三十五回展で会員となり、第四十四回展まで出品。没後、第四十六回展で特別陳列される。 東京美術学校在学中、二十一歳の年、第八回文展に大作《椿》(現題は「愛」)を応募するが落選する。洋画部の審査主任は森鷗外だった。「おれの絵のどこがわるい?」落選の理由を聞きに鷗外に会いに行く。すると、「これは君が何を能くするかと云う問題である」「表現能力を磨くには、自分の城に独りで閉じこもって絵を描くだけではいけない。世の中の見識を深める関係作りと、生活の一助となり得るかもしれぬ支援者の縁を持つことが大事だ」とアドヴァイスをもらう。鷗外に知遇を得た宮先生は、その後、鷗外の元へ何度か訪ね、近況を語る。鷗外はその話をもとに、宮先生をモデル(主人公M君)にした短編小説『天寵』を書く。
東京美術学校時代に二年先輩の曾宮一念と知り合い、その後、中村彝に師事、高村光太郎、伊藤廉等、宮先生を支援する人たちと出会うことになる。そして、中村彝、曾宮一念に紹介され、諏訪に美術教師の職を得た宮先生は、諏訪の自然に触れ、純真な子供達に囲まれるにつれ、初期の幻想的な画風から、自然に内在する美、自然が持つ現実的な力を描き出す描写に変化してゆく。『AYUMI』は、そんな中、宮先生が執筆し労を費やして印刷したガリ版の個人通信誌で、「絵を描くのが終わったら皆さんとお話ししたい/これがわたしの願いです/これがわたしのAYUMIです/どこまで歩いて行くのか知らない/道はあるようでもあり、ないようでもある/・・・/このAYUMIが愛の花束と なるまで」親しい友人への音信として、またかつての教え子たちへの「愛の花束」として毎号百部程度が発行された。
聖書に興味を持っていた宮先生は、七十三歳の時に、欧州ツアー「聖地巡礼」に参加し、各地を巡る。旅ではカメラを持たずに、自分の心を通したスケッチだけに頼ろうと、巡礼の地を心に焼き付けた。その後描かれた《聖地巡礼シリーズ》作品は、巡礼によって熱く沸き立った宮先生の心象が強く表現され、一人の日本人画家が精魂の限りを尽くして描き残した他に類例のない希有のキリスト教的宗教画になった。
「清浄(きよ)く美しい足跡を残そう 雪の上を裸足で歩いて来たような足跡を」「自由に自由に ほんとうにこの自由に という言葉がわかってくれさえすれば- 自由とは捉われない心これです その底にはっきりと自分の行こうとする こころを持っている- そして燃えた心です この心の故に自由を欲する この心の故に自由を尊ぶ この心の故にすべて完全が生まれる」 宮先生は、作品と共に数々の詩作を残された。 振り返って見ると、宮先生の歩みは、国画会の"野に在って咲いたひとつの花"であったと思う。


文責 会員 東方達志

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