国画会が運営する日本最大級の公募展。

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品川先生と笹島先生のことなど

会員 増田陽一

 「『階段の真ん中を降りると危ないから手摺につかまって降りなさいよ。』と、マスダさんに言われたよ。」と、百歳の品川工先生が語られたのは、練馬区立美術館での記念展の時たった。それほど先生はお丈夫で95歳までは銀座の画廊めぐりに歩かれた。そして地下鉄有楽町線に降りる階段まで送る時、僕が言ったことを百歳まで記憶されていた。『百歳記念展に作家が毎日出て来るのは驚きですよ』と美術館の学芸員が呆れたように言ったものだ。その時もお元気に作品の思い出を語られた。ひと頃の多色刷の抽象構成について、『和紙に顔料を染み込ませながら何度も摺るので、家内も手伝って昼食抜きで、一枚摺るのに一日かかったよ。』
 そして百一歳で亡くなる年まで国展に出品されたのだから、百三歳での平塚運一先生、また九十一歳の川西祐三郎先生と共に畏敬の念を禁じえない。しかも諸先生とも亡くなるまで作品は充実して衰えもなかった。練馬区立美術館では少し前の1996年にも『メデイアと表現・品川工・山口勝弘』という戦後美術の記念的な展覧もやっている。
 品川先生と僕との縁は1973年養清堂での個展に来て下さり、国展に誘われて以来だったけれど、サイトウ良、園城寺健治、星野美智子の諸氏もそれぞれ先生との出会いがあって、現在版画部に居られるのである。最近辞めたけれど岡部和彦氏も居た。彼は国展の事務局長も勤め、ポスターデザイン等でも貢献した。共通するのは、お互いに品川先生が集めたグループ、『DIX版画展』その他のメンバーだったことである。新宿の『椿近代画廊』で5回展まで続き、毎年話題を呼んだと思う。(DIXはフランス語の10の意で、最初十人居た)それが終わった後も先生の企画された我々のグループ展は数多い。会場に先生は毎日のように出てきて激励された。
 品川先生が昭和6年頃からフランスの前衛雑誌「ミノトール」や、バウハウスの文献と出会って刺激を受けたこと、本郷の東大前に兄上と創立された「ペリカン」という喫茶店があり、そこで織田作之助、立原道造、古賀春江などの知遇を得て、古賀春江が東大病院に入院したときは毎日見舞に行ったこと、それらの出会いが後の感性を養うのに役立ったことなどは良く話された。そして『府立工芸金属料』で学んだ技術による金属や紙のオブジエを恩地孝四郎先生に見せて激賞され、版画制作を薦められてこの道に入った、と言うことである。抽象表現の草分けであったけれど、実は伝統にも詳しく、骨董の古陶器や江戸期の古文書など、はては古い大工道具の鋸や鉋の蒐集もある目利きであった。僕は王子のお宅によく伺ったけれど、奥様が女子美出身と言うことで、戦後の『美術手帖』にあった土門拳の女子美訪問記を記憶していたから、「女子美には、昔は馬に乗って通う生徒が居たそうですね。」というと奥様が『それは私です』と仰られたのには驚いた。奥様の父君は高名な仏師の関野聖雲で、その遺品の鋭利な彫刻刀が先生の木版画に使われていた。

 品川先生の造形は何時も物質の材質感に裏打ちされていて強靭であり、観念や情緒の仕事とはまた違った、「材質との対話」と言うことが本質にあった。植物や昆虫にも好みがあって、植物のウラシマソウが面白いと言うので、うちの近所の藪から大量に根を掘って持っていった。庭にアーカンサスが植えてあり、浦島草とか山蒟蒻とか、個性ある山草の花を愛好された。
 銅版プレスを使う必要がある時は、よく版木を抱えて千葉県流山市の拙宅までおいでになり、一日仕事をしたあと夜の更けるまで絵のことや僕の収集した蝶の標本などを見て話をされたのが懐かしい。全面エンボスの版や、布地を貼った版の刷りの多くはこの時のものである。

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増田陽一 萌芽期’10-1  64×84.2cm

笹島喜平先生には会員推挙の免状を手渡して頂いたけれど、そのあとで「ハイカラな絵を描いていてはいかんぞ」と言われたものである。ところが僕の干支の動物の年賀状を喜ばれて、著書「半画人」と毛筆の書簡をお送り下さった。「半画人」は先生の自伝と信条の書で、「写実」を尊び、モダンアートヘの批判を展開されている。併し先生の「写実」とは表面描写ではなく、本質を突き詰めて単純化した形の構成であって、例えば「版画道の一転機になった記念すべき作品」と自ら書いておられる1959年の「風ある林」や、また「一点一線の操作に神を労して仕上げた画面を見た時に、なんとも名状し難い感動か  こみ上げて目頭に涙がにじんできたのである」と述懐されている「古塔B」など、殆ど抽象とも言える画面ではないか。
 晩年は故郷益子の病院に療養され、お見舞いに行くと廊下で車椅子を押すリハビリをして居られた。お葬式には益子山中の「地蔵院」と言う古寺の堂の縁に遺作と遺影を並べ、読経にウグイスの声が混じる、誠に先生らしい式であった。サイトウ良氏と共に参列した。
 笹島先生は御著のなかで「写実」の極点として「芭蕉の俳句」を挙げて居られる。この点は平塚運一先生が立派な万葉調の和歌を残されているのと同じく、「写実」の探求の底に詩性があったのである。そして、「版画」とはすべてそのようなものではないだろうか。 (千葉県流山市在住)

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