国画会が運営する日本最大級の公募展。

栄光のOB

第5回 須田 剋太

活躍した嘗ての会員OBを思う・・・

須田剋太  SUDA Kokuta  1906-1990

無題 130cm×97cm 制作年不詳 和寧文化社所蔵

  須田剋太先生の思い出

 世間では画家須田剋太といえば司馬遼太郎の「街道をゆく」の挿絵を描いた画家として幅広いファンがおり有名人だ。しかし先生の過去を遡れば日展特選3回の受賞時代は勿論、その後抽象に転向され、日本の熱き抽象画の闘士としてその実力は遺憾なく発揮され、戦後の日本抽象絵画史の上でも評価は確立されている。画家須田剋太の、生まれてから死の直前迄の事は平成15年7月14日に須田剋太研究会の加藤勉氏によって著された著書「画狂剋太曼荼羅<須田剋太伝>」(邑心文庫)によって知ることが出来る。

 私の心に生き続ける須田剋太先生は、評価の高い有名人画家としての先生の部分というよりは、私が国画会に所属してからの約25年間の間、身近に見せていただいた泥まみれの不器用とも言えるすさまじい生き方を実践された純粋画家としての先生の生き方なのだ。

 私が国展に出品し、須田剋太という画家に出逢えたのは、28歳で国画会会員となり昭和61年41歳の若さで故人になってしまった天才画家(と私は思っている)山本正彦という友人のお陰だ。私が大学生の時、彼は大学に入学すると間もなく第38回国展に出品し、「増地さん、国画会には須田剋太という凄い画家がいる。増地さんも是非国展に!」当時二紀や独立に出品していた私を説得し、私も第39回国展から出品することとなった。

 その時須田先生は59歳であった。その後私は何年もかかって先生の凄さを目の当たりにしていくのだが、天才画家山本氏は一瞬にして先生の生き方を悟ったのだと思う。先生はその時青年期からの修行僧の如くのまま60代に突入と、脂の乗り切った猛烈な抽象画を描かれていた。公募展としての「関西国展」を立ち上げ、国展の発展にも情熱を傾けられる生き様は、ひと口に言えば「我が身を捨てて行動する」という感じだった。私には「公的な立場で私的なことを言ってはいけない。」「俗世から逃げては駄目、俗世の真っ只中で純粋を貫くのだ。」「実践体験行動連続。」「権力的言動はいけない。」「他と比較しては駄目。」「造形の仕事は制作しながら学ぶこと。」「馬鹿は馬鹿でよい、器用で賢い増地より、そのままの増地が好きだ。」等々、嬉しいような悲しいような言葉を次々と発せられ、青年の私は、60代の画家とはとても思えぬ迫力のある先生の言動に驚き、自宅アトリエのあちこちの壁に「実践体験行動連続!」「人間差異存在!」「不器用も武器!」等と、十分に理解できないまま大きな文字を書いて貼り付け、先生の真似事気分で命を燃やす日々だった。

 その後先生は65歳から「街道をゆく」の挿絵や、具象画、書、陶器等、幅広く個展やグループ展に発表される多忙な日々となってしまわれ、結果的に有名人にどんどんとなってしまわれたけれど、自ら求められたわけではなく、私にはいつも「有名病には気をつけなさい。」と言われていた。「自分の仕事はまだまだ駄目だ駄目だ。」と言い聞かせ「全てを捨ててもう一歩前へ。」という、日展特選を捨てたあの純粋画家のスタイルを貫く為の一生であったと私は思っている。

 そういう狂気とも思える画家の制作態度とは全く正反対に、日常私たちに接する表情は、アンパンの入ったカバンを細身の肩にかけ、強い風が吹けば転倒するのではないかと思われる位なよなよと優しい穏やかな先生がおられた。私達にご馳走して下さったり、又他人に振りまわされたり、喧嘩してクヨクヨしたり、自問自答の普通の弱い人間らしい一面も多く覗かされるのだった。しかし先生の絵は観る人を圧倒する。「観る人を殺してしまう程の迫力が絵には必要だ。」とも言われた。奥様がよく言われた。「鬼のような形相でキャンバスに向かっている。」と。私に見せる仏のような慈悲に満ちた姿。その落差の大きさこそ名作出現の秘密だと思っている。実際国画会で尊敬する先生方もその落差が大きい。

 私もいよいよ初めて先生にお会いした年齢を過ぎてみると、あの修行僧の如くの制作態度や厳しい言葉の数々、あの膨大な数の作品づくりも、結局年齢を重ね、マンネリと立ち向かい、明日筆を折るのではないかと思える創作の困難に直面する画家の恐怖にも似た精神状態を克服するための解放手段としての智恵であり制作を可能にする為の先生流の答えだったのだと私は思う。

 昨年は生誕100年。記念展が開催され今年も巡回される。先生が残された膨大な数の作品群は、画家だけではなく、求道精神で生きる多くの人々に勇気を与え、深い愛情で支え続けることだろう。

2007年1月 増地保男(国画会会員)記

 

無題 130cm×97cm 制作年不詳 和寧文化社所蔵

無題 91cm×130cm 制作年不詳 和寧文化社所蔵

 

須田剋太略年譜
1906年
(明治39年)

0歳

埼玉県吹上町で須田代五郎の三男として生まれる。本名は勝三郎。

1927年
(昭和2年)

21歳

埼玉県立熊谷中学校(旧制)卒業。その後浦和市に在住し独学で絵を学ぶ。寺内萬治郎画伯がその才能に注目し、官展への出品を勧める。

1935年
(昭和10年)

29歳

第22回光風会に「カリフラワー」「静物」が入選。

1936年
(昭和11年)

30歳

昭和11年文展で「休憩時間」が初入選。

1937年
(昭和12年)

31歳

第24回光風会展に「樹魂」「仮面仮装」「桃割れの子」が入選。光風賞を受賞し、会友推挙。

1938年
(昭和13年)

32歳

第2回新文展で「少女座像」が入選。

1939年
(昭和14年)

33歳

第3回新文展で「読書する男」が特選。

1940年
(昭和15年)

34歳

第27回光風会展に「姿」が入選。会員に推挙。奉祝展で「苦力」入選。

1941年
(昭和16年)

35歳

第4回新文展に「若き男」を無鑑査出品。

1942年
(昭和17年)

36歳

第5回新文展で「神将」が特選。

1946年
(昭和21年)

40歳

第2回日展で「東大寺正面」が入選。

1947年
(昭和22年)

41歳

第3回日展で「ピンクのターバン」が特選

1949年
(昭和24年)

43歳

国画会会員になる。このころ抽象絵画の騎手、長谷川三郎氏と出会い氏の理論に共鳴し、以後主に抽象画を制作。

1954年
(昭和29年)

48歳

第1回現代日本美術展に出品。

1955年
(昭和30年)

49歳

東京ビエンナーレ国際美術展に出品。

1959年
(昭和34年)

53歳

米・ヒューストン美術展に出品。伊・プレミオリソーネ展に出品。

1961年
(昭和36年)
55歳 米・ピッツバーグ・カーネギ展に出品。
1962年
(昭和37年)
56歳 西宮市文化賞を受賞。
1967年
(昭和42年)
61歳 西宮市民会館アミティホール緞帳を制作。
1971年
(昭和46年)
65歳 週刊朝日「街道をゆく」の連載始まる。挿絵を担当。兵庫県文化賞を受賞。
1976年
(昭和51年)
70歳 埼玉県吹上町文化賞を受賞。
1977年
(昭和52年)
71歳 大阪芸術賞を受賞。
1983年
(昭和58年)
77歳 週刊朝日「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
1988年
(昭和63年)

82歳

第17回フジサンケイグループ広告大賞を受賞。

1989年
(平成1年)
83歳 埼玉県立美術館で「須田剋太作品(抽象)展」開催。
1990年
(平成2年)
84歳 長野県飯田市美術博物館で「須田剋太の世界」ー 抽象画と書・陶 ー 開催。7月14日神戸市内の病院で死去。

<参考>「画狂剋太曼陀羅」 加藤 勉 著

発行所:邑心文庫 TEL:048-548-4778 〒369-0115 埼玉県北足立郡吹上町本町1−4−12

 

窓に倚る女 92.5×73cm 1929年

静物写生図 72.7×60.6cm 1934〜5年

 

<参考>須田剋太の作品

大阪府立現代美術センター

夜大阪市中央区大手前3−1−43大阪府庁新別館北館 南館

大川美術館

群馬県桐生市小曾根町3−69(TEL:0277-46-3300)

新星の丘「新星館」

北海道上川郡美瑛町字御牧(TEL:0166-95-2040)

大阪市立近代美術館(仮称)コレクション

準備委員会(TEL:06-6208-9099)

喫茶・美術館「花こばこ」お好み焼き「伊古奈」

東大阪市宝持1−2−18(TEL:06-6725-1008)

司馬遼太郎記念館

大阪府東大阪市下小坂3−11−18

愛知県美術館木村定三コレクション
愛知芸術文化センター10F

名古屋市東区東桜1−13−2(TEL:052-971-5511)

埼玉県立近代美術館

埼玉県さいたま市浦和区常磐 9−30−1(TEL:048-824-0111)

飯田市美術博物館

長野県飯田市追手町2−655−7(TEL:0265-22-8118)

元興寺

奈良市中院町11

兵庫県立美術館 神戸市中央区脇浜海岸通1丁目1番1号(TEL:078-262-0901)

 

 

     2020/05/19  絵画部・栄光のOB


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