国画会が運営する日本最大級の公募展。

栄光のOB

第6回 伊藤 廉

活躍した嘗ての会員OBを思う・・・

伊藤 廉  ITO Ren  1898 – 1983

鳩と水差 60.5cm×72.5cm 1948年

  前の前の都美術館、国展と春陽会とは正面の大きな階段を昇ると会場が隔年で右と左に別れ、双方の旗がひらめいていたことを思いだす。その頃、伊藤廉先生は東京芸術大学の美術学部長であったが、伊藤教室も持っておられた。氏は美術界では学者肌だといわれ、著書も多いことでも知られていた。当時、今のような観光案内書はなく、道中分からないことが多かった。そうしたなか、先生の著書はパリだけでなく、他の都市の美術館のこと、作品のこと、作品の見どころ、食事のことなどについても詳しく紹介されていて、留学した人たちはこれを頼りに歩いた人も多かったと聞いている。私自身も先生に奨められてオータンを訪ね、ロマネスクのレリーフに魅せられたことがあった。先生はパリが好きで「このまちで、カフェに座り友人に手紙を書けたら」と、何通か手紙をいただいたことを思いだす。

静物写生図 72.7×60.6cm 1934〜5年

話は戻る。先生が陳列委員長になられた時のこと。当時、毎年1室に陳列される作品が定まっていたことについて、批判が少なくなかった。そこで2階を1室にしたことがあった。大きな作品は少なく、先生御自身は四号Fにレモンを描き出品されたことを覚えている。先生が常に口にされた言葉は「絵は宝石のふうでなければいけない」「絵は失敗しなければ良い作家になれない」先生のモットウとする言葉だった。

井上 悟 記

 

鳩と生物 100×80.3cm 1948年

岩山夏 91×116cm 1933年

窓に倚る女 92.5×73cm 1929年

 

 

伊藤 廉 略年譜
明治31年
(1898)

0歳

10月7日名古屋市西区上園町4丁目19番地に生まれる。父四郎は碧海郡旭村の山中家よりの養子で医師である。母は千万という平松家よりの養女であった。父系の祖父に山中信天翁があり、大田垣蓮月尼、富岡鐵斎その他維新の志士と親交あり、南画をよくする。母系の曽祖父は稼業をやめて後、暁星と号し奥村石蘭の門人忙して四條円山派の流れをくむ。

明治33年
(1900)

3歳

妹,敦子生る。

明治38年
(1905)

7歳

名古屋市立明倫尋常小学校に入学。

明治43年
(1910)

12歳

この年夏、母33歳で歿す。

明治44年
(1911)

13歳

尋常小学校卒、第一高等小学校入学。翌年第二学年にて中退。また育英夜学校に学ぶ。

明治45年
(1912)
大正元年

14歳

愛知県立第一中学校入学。学校は質実剛健を旨としていたから運動競技に熱中し、弓術と機械体操の選手であったが、次第に文学、美術にめざめる。

大正6年
(1917)

19歳

第一中学校卒業。明治大学文学部に入学するがすぐに中退する。馬場孤蝶、生方敏郎その他宇都宮の「文芸研究」同人と知り、ひいては菊池寛とその周辺に集った新感覚派の文学者とさかんに交友を重ねるようになる。一時同人雑誌「四元」を出す。同人は佐々木味津三、舟橋 章、美甘厳夫と四人。二号は発売禁止になる。「文芸研究」と「四元」と合流して文芸同人雑誌「蜘蛛」を作る。

大正7年
(1918)

20歳

愛知県立医学専門学校入学、中退。本郷絵画研究所に学ぶ。研究所には岡鹿之助がいた。

大正9年
(1920)

22歳

東京美術学校西洋画科入学。入学試験にはホーマーの像が出題された。1年では石膏素描を長原孝太郎先生に学び、2年は人体を小林万吾先生に、3年で岡田三郎助教授教室に入る。在学中弓道部に入っていた。しかし余り学校には出ないで同級野間仁根とモデルを雇い二人にて勉強してすごすことが多かった。

大正10年
(1921)

23歳

「童顔社」を組織して上野公園美術倶楽部で同人展を開く。同人は絵の野間仁根、中谷健次、一原五常、水野清、沢健太郎、薄田芳彦、彫刻の山本稚彦で同級生と一年下級の学生とである。一人、六、七点ずつ出品して、二回でやめる。

大正11年
(1922)

24歳

従妹村田貞子と結婚し、目白上屋敷に住居す。文芸春秋創刊され同時に蜘蛛刊行も止む。文学者と交際も疏となる。文学と絵画と二途の勉強が無理と感じたためである。

大正12年
(1923)

25歳

第10回二科展に「室内」10号一点初入選する。戦災消失す。

大正14年
(1924)

26歳

第11回二科展出品、「静物」二点。焼失。

大正14年
(1925)

27歳

東京美術学校西洋画科卒業。卒業制作に裸婦80号を描く。椎名町にアトリエを作る。戦災で焼失す。第12回二科展「少年」「腕組める裸婦」「花などの静物」「裸婦習作」の四点出品。二十号から八十号。

昭和元年
(1926)

28歳

聖徳太子奉讃展に「ばら」10号を出品、オランダ人某に買わる。絵が売れた初めのことである。

昭和2年
(1927)

29歳

第14回二科展に「裸婦」「画室のモデル」「静物」「蔓性薔薇など」の四点出品。長男弼誕生。
10月香取丸にて渡航、フランスに向かう。宮田重雄と同船。パリに滞在、グラン・ショミエールにてモデルのデッサン、コラロッシュ、アカデミ・モデルンに時々油絵をかきに通う。
翌3年の春5月スペインに行きニヶ月間滞在、ゴヤ百年記念展をマドリット及サラゴサで見るためとセヴィラの復活祭を見るのを主な目的とするものであった。またこの年は友人とアムステルダム・オリンピックを見にゆきそのあと一人のこってオランダ,ベルギーなどを旅行。
同4年の春から夏にかけてイタリア旅行。またオーストリィ、ハンガリィを見る。ブタペストではポルチェフ男爵を訪問、日本人最初の訪問客として迎えられる。そのコレクションのグレコ7点を見る。夏以後は制作に従う。ギヤラリー・ドゥペールの日本人美術家展に「窓に倚る女」 出品、「’ART VIVANT」誌に作品紹介さる。
なおフランス滞在中は福島繁太郎氏の宅にてルオーの制作手伝いを、山下新太郎先生紹介にてアスラン、その他ヴラマンク、シャガール、ザッキン、G・コキョなどと知る。

昭和5年
(1930)
32歳 春スイスにて療養中の福島夫人を訪ね、ウィーンで旅程をととのえシベリア経由で帰国の途につく。 ギャラリー・ザックの日本人美術家展に「白いブラウス」を出品、作品はFORME誌に紹介さる。6月帰国。 第17回二科展に滞欧作を特別陳列。14点。二科賞を受ける。
1.「フォトィユにねむれる女」
2.「A・E氏の肖像」
3.「線色のジレ」
4.「フォトィユに休む女」
5.「急に倚る女」
6.「肖像」
7.「静物食卓」
8.「窓に近く」
9.「肖像」
10.「レ・フラテリニ」
11.「肖像」
12.「リュウマチの労働者」
13.「パンフレをよむ女」
14.「ヨッパラヒ」
この年10月独立美術協会創立。その会員となる。里見勝蔵、児島善三郎、林武、林重義、中山巍、清水登之、鈴木保徳、鈴木亜夫、福沢一郎、三岸好太郎、高畠達四郎、川口軌外、小島善太郎、伊藤廉(順序不同)
昭和6年
(1931)
33歳 第1回独立展に滞欧作10点を出品する。
「新聞をよむ女」「肖像」「風景 海」「裸体習作」「労 働者区料理店」「頭」「窓に倚る女」「ナポリの浮浪者」「水浴構図」「半身」 この年名古屋松坂屋で滞欧作展を開く。
昭和7年
(1932)
34歳 第2回独立展に4点出品。
「手紙を書くブルダニュの女」「海(エトルタ)」「夏」「ギター奏手」
7月長女柴子生まれ同年11月死す。その後今日まで人物を主題に制作せず。しばしば妙義山にゆくようになる。
昭和8年
(1933)
35歳 第三回独立展に「岩山」の連作五点と「登山用具静物」出品。
昭和9年
(1933)
36歳 第4回独立展に「虎」出品。
これは名古屋朝日ビル、ABCクラブの壁にとりつけられた大作(2m×2.5m)だが、戦中破損消失す。
朝日新聞連載,武田麟太郎「銀座八丁」の挿画を描く。他に連載挿画の仕事としては後に朝日新聞に坪田譲治「家に子供あり」、中日新聞に岸田國士「荒天吉日」がある。
この年の「独立美術」に特集される。
昭和10年
(1935)
37歳 第5回独立展に「雨霽(熊野川)」「柘榴・無花果」出品。
京都朝日ビルの外壁と二階広間に川口軌外、林重義と三人で25m×25mの大壁画を制作、新聞報道を主題としてぺンキで描いたが、十余年ののちこの外壁は破損、東郷青児のものに変更となる。内部のホールには油絵具で別図の大作を描く。室内装飾変更のためとりはずされる。
「ルオー画集」(アトリエ社)出版。この年二男衛生まる。
昭和11年
(1936)
38歳 第6回独立展に「群猿」出品。東京府美術館十周年展に「岩山」出品。
東京オリンピック開催準備委員美術部門で伊原宇三郎、硲伊之助らとともに委員となる。
昭和12年
(1937)
39歳 野口弥太郎と台湾を旅行する。第7回独立展に「西蕃」未完出品。「水牛の喧嘩」100号を制作、後年愛知県に寄附す。朝日新聞社主催、明治・大正・昭和名作展の委員となる。「虎」出品。この年、独立美術協会脱会。
昭和13年
(1938)
40歳 曽宮一念、里見勝蔵、林重義と霜林会結成,兜屋画廊に第一回展を開く。以後3回にて止む。
昭和14年
(1939)

41歳

牧野虎雄、曽宮一念、里見勝蔵、小林和作と宗美会結成、資生堂画廊に第一回展を開く。以後2回続く。三昧堂ギャラリーにて個人展を開く。風景、静物などを主題に十点出品。
また、「紅葉、寒霞溪」「妙義山新緑」の連作12点を兜屋画廊にて開催。
この年精神的、肉体的不安のため富士見村に移る。以後大戦中も富士見に住む。「ゴヤ」(アトリエ社)刊。

昭和15年
(1940)
42歳 紀元二千六百年奉祝展に「青葉風景」出品。
三男轟生まる。
昭和17年
(1942)
44歳 「イタリア日記」(双林社)刊。
昭和18年
(1943)
45歳 国画会会員となる。第18回国展同人「雉子」出品。帰国後、新聞、雑誌等に発表した随想等約八十篇をあつめた「點線」(書物展望社)刊。文部省推薦図書となり、再版。
昭和20年
(1945)
47歳 戦争終る。年末に今村の実妹宅にて父74歳で歿す。遺産なし。
昭和21年
(1946)
48歳 東京美術学校講師となる。故佐分真の旧居、北区西ヶ原二丁目に移住する。
第20回国展「仏頭不動明王鬼面百点」の素描を出品。
昭和22年
(1947)
49歳 第21回国展「赤い卓」「雨上り」出品。第2回日展に選挙制により審査員となる。
東京図書教科書編集を依嘱さる。
毎日少国民新聞(のち小学生新聞)に連載したものをまとめて「絵の話」(美術出版社)刊。
昭和23年
(1948)
50歳 第22回国展「八角瓶と柘榴」「雨上る」出品。
第1回朝日新聞選抜展「鳩と水差」出品。
第1回毎日新聞連合展「鳩と窓辺の静物」出品。
昭和24年
(1949)
51歳 東京美術学校助教授。
第23回国展「硝子器」「桃と水差し」「鳩と水差し」出品。 熊谷守一、梅原龍三郎、中川一政、青山義雄、須田国太郎、小林和作、小泉清と丹楓会結成、高島屋画廊にて展覧会を催す。約20回ほど続く。この間に里見勝蔵、鳥海青児、野口弥太郎加入す。毎日新聞出版文化賞選考委員となる。小学館、児童、生徒作品コンクール審査員となり、現在まで続く。
随想集「球面」(大丸出版)刊。「絵の話(2)」(美術出版社)刊。「セザンヌ覚書」(中央公論社)刊。
昭和25年
(1950)
52歳 第24回国展「牛と静物」「牛のゐる風景」「窓辺風景」出品。「絵の話(3)」(美術出版社)刊。
昭和26年
(1951)
53歳 前田外科分院にて胸廓成形手術をうける。東京美術学校休職。富士見高原療養所に養生。自宅の隣地に前田嘉明氏の別荘あり。前田一家との交際生ず。この年から昭和30年にかけて国展に出品なし。
昭和27年
(1952)
54歳 美術科程副読本として「西洋美術」(創元社)刊。
昭和28年
(1953)
55歳 退院、自宅養生。
昭和29年
(1954)
56歳 東京芸術大学教授。
昭和30年
(1955)
57歳 「セザンヌ」(みすず書房)刊。
昭和31年
(1956)
58歳 国展出品再開、第30回国展「無花果一顆」、文部省教科書図書出版調査審議委員となる。(同33年〜35年再任。)
昭和32年
(1957)
59歳 東京芸術大学評議員。(同34年、36年再任。)
第31回国展「無花果五ツ」出品。「名作デッサンの手法」「制作入門(1)」「制作入門(2)」(いずれもアトリエ社)刊。
昭和33年
(1958)
60歳 第32回国展「蜜柑」出品。
第3回現代日本美術展「蜜柑」出品。
第2回国際具象派展「洋梨」出品。
安井賞選考委員となる。(以後第2回、3回、6回、7回、8回、11回)安井賞選考委員。
昭和34年
(1959)
61歳 第33回国展「蜜柑五個」出品。
「フォルムの研究(1)愛と美のポーズ」(アトリエ社)刊。
昭和35年
(1960)
62歳 第34回国展「葉上無花果」出品。
第4回現代日本美術展「円卓上の無花果」出品。第3回国際具象派展「円卓上の無花果」出品。美術家連盟委員となる。(同38年にかけて2期)安井賞評議員となる。          「フォルムの研究(2)」「美しいフォルム」「フォルムの研究(3)」「美しい形の発見」(いずれもアトリエ社)刊。
昭和36年
(1961)
63歳 東京芸術大学美術学部長になる。(同41年まで任期2年再任)
昭和37年
(1962)
64歳 第36回国展「西洋梨」「柚子」出品。
第4回国際具象派展「庭の一隅」出品。
昭和38年
(1963)
65歳 第37回国展「レモン」「円卓レモン」出品。
フランス政府給費留学生選考委員。
昭和39年
(1964)
66歳 第38回国展「洋梨」出品。
小学館刊 少年少女世界名作文学(全50巻)の表紙絵解説を依嘱される。9月第1巻発刊。毎巻執筆。(昭和43年10月、50巻刊行完了)
昭和40年
(1965)
67歳 第39回国展「静物」出品。
大学設置審議会専門委員。「中学の美術」(旺文社)監修、光村図書出版美術教科書編集主任として、その編集にあたる。
即ち
          高等学校(1)42年度用教科書(40年より編集をはじめる)
              (2)43年度用教科書(41年より編集をはじめる)
           中学校(1)
              (2)  44年度用教科書(42年より編集をはじめる)
              (3)
           小学校(1)
              (2)
              (3)  46年度用教科書(44年より編集をはじめる)
              (4)
              (5)
              (6)
・3ヶ年ごとに改訂版を文部省に提出し認可を受く。
昭和41年
(1966)
68歳 東京国立博物館に於てフランス17世紀絵画について講演す。東京芸術大学に「白いブラウス」「窓に倚る女」2点を寄附、また坂崎坦氏のすすめにより近代美術館に「パン」「リュウマチの労働者」「鳩と窓辺の静物」「赤円卓無花果」4点を寄附。退官記念として旧作を資料館に陳列す。
東京芸術大学定年退官、東京芸術大学名誉教授。愛知県立芸術大学創設にあたり教授として就任、同大学美術学部長を勤む。(同45年まで)毎日新聞社中部国際形象展の委員となる。ユネスコ、日伯文化交流会議活動小委員会調査委員として、ブラジル、サンパウロに出張講演「鐵斎・風土・湿潤性」アメリカ東海岸都市を見学。愛知芸大玄関に大理石モザイク作成。7月から12月にかけて毎週一回中日新聞「紙つぶて」東京新聞「石筆」欄に随想を寄せる。
第40回国展「レモンとイチヂク」出品。
なおこの年以後国展に出品なし。愛知芸大設置のため勤務の都合による。
昭和42年
(1967)
69歳 「絵の話」1、2、3をまとめて(美術出版社)再刊。
昭和43年
(1968)
70歳 「デッサンのすすめ」(美術出版社)刊。良書百選推薦。
綾杉会結成、同人糸園和三郎、牛島憲之、中谷泰、伊藤廉 第一回展名古屋画廊にて開催。
昭和44年
(1969)
71歳 第22回中日文化賞を受ける。
昭和45年
(1970)
72歳 勲三等瑞宝章を受ける。勤労会館ホールの鍛帳制作。銅版画と織部志野作陶展を名古屋画廊で開く。豊中市にアパートを持ち仕事場とする。
昭和46年
(1971)
73歳 紺綬褒章を受ける。5月より8月まで滞欧、愛知芸 大参考品購入のためと第二次大戦後の美術学校の在り方の調査のためパリとマルセイユの美術学校を視察。パリ美術学校副学長カサナスを訪ね質問、教授シャプラン・ミディ、サンジェをその教室に訪ねる。前教授ブリアンションをパリのアトリエに訪ねる。
イタリア旅行中ローマでファッツィーニ、マンズー訪問、ヴェネツィアではアカデミア教授サエッティを訪問、滞在中交際す。(前田家箱根別荘の絨毯制作)
「近代日本美術における1930年展」(3〜5月於東京国立近代美術館)の<フォーヴ的傾向>のなかに「パン」(1927年)「リュウマチの労働者」(1930年)が出品される。
昭和47年
(1972)
74歳 定年制施行のため愛知県立芸術大学を退職。客員教授となる。
昭和48年
(1973)
75歳 7月より9月の間渡欧、ギリシア、イタリア、フランス等見学。滞欧中国画会より会員失格通知あり退会す。
昭和49年
(1974)
76歳 国立西洋美術館のセザンヌ展に際して「セザンヌ」について講演す。
昭和50年
(1975)
77歳 大阪大学人間科学部玄関にガラス、タイル壁画制作。
昭和51年
(1976)
78歳 「油絵のみかたについて」(美術出版社)刊。「絵の話」「デッサンのすすめ」と三部作として完結す。
昭和53年
(1978)
80歳 名古屋読売新聞美術展の委員となる。墨素描展(29点)を名古屋画廊に催す。
名古屋読売新聞美術展の委員長となる。
国立博物館設置促進委員となる。
名古屋市地下鉄八事駅広場に陶板タイルモザイクを制作。
名古屋オープン、ロケーション設立委員におさる。
昭和54年
(1979)
81歳 4月名古屋日動画廊において回顧展開催。(84点を陳列)
昭和薬品株式会社新築祝賀のために油絵十点と素描展を同社内ロビーにて開催す。
昭和55年
(1980)
82歳 丸茂画廊(名古屋)にて銅版画、淡彩、デッサンの回顧展を催す。滞欧作「A.E氏の肖像」100号をライオンズ・クラブを経て一宮市に寄付す。
4月フジテレビにより、テレビ美術館「実在感について」を放送す。
    (福田徳樹、稿)

     2020/05/19  絵画部・栄光のOB


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