国画会が運営する日本最大級の公募展。

第7回 栄光のOB 松田 正平

第7回 松田 正平

活躍した嘗ての会員OBを思う・・・

宮 芳平  Matsyda Shohei  1913-2004

ネル・コレ 54.7cm×37.5cm 1939年

 松田先生の一面

 瀬戸内海の夕映えの刻、白い砂浜が吸い込まれる様な得も言えぬ一瞬を創り出すことがある。「この光景を何とか表せないものか」と心底から呟かれたことを思い出す。  この頃から次第に調子を磨き出す方向に向かわれたのではあるまいか。いつだったか訪れた折、雑然とした仕事場の片隅から一枚のピカソのデッサン(顔・リトグラフ・複製)を取り出され私の方に差し出された。無造作に受け取ろうとした瞬間「触っちゃ駄目、調子が崩れる」と大きな声を出された真剣な顔に恐縮した覚えがある。画いては消し、消しては画き、削りの繰り返しで心琴に触れるまで続けると言う感じでした。最晩年、親交のあったある音楽関係の方が電子音楽で音の調整をしながら心に響くかすかな音をさがし出す様だと言われて居たが、言い得て妙。 世事には余り関わりがなかったので、突然お邪魔してもいつも居られた。多分、人々との交流は余り無さらなかったのではないだろうか。唯、郷里からの受験生の面倒は良くみられて居た。後輩から私の受験生当時の石膏デッサンなどよく見せられたと、夛分、国画会研究所(荻窪)の閉鎖の折、保管して居て下さったのだと思うが其のままになってしまった。公の場でお目に掛かったのは、日本芸術大賞を受賞された折、新潮社の授賞式の一日だけで其の時も本人にもよく解らないのではと思われる位短い挨拶ではやばやと自分の席に帰られた記憶がある。公の場は余り性に合わないという風でした。 作品の発表は、主として国展と春・秋の年二回のフォルム画廊、そして年一回の瞬生画廊(※2003年以降)。 いずれも小品の油彩画か水彩画であった。 其の折などチーズとワインを買って帰られるのが楽しみな様子でした。楽しみと言えば囲碁などよくなさって居られた。私も時々、何目か置いてお相手した覚えがある。 お話などされる時は、いつも笑顔でひょうひょうとして居られたが頑固な面もお持ちで、各団体展とも大きな作品の発表に変わった時期にも「絵画きは、大きな作品を画く必要はない。五十号以下の小品で良い」と言って居られた。批評などお願いしても「絵画きは画いて居ればよい」と、其れをずっと終生続けられて居た様に思う。

江村正光 記

 

農夫 91×60.6cm 1969年 第43回国画会出品

周防灘風景 80.5×117.1cm 1979年 第53回国画会出品

周防灘 80.5×116.8cm 1983年 第57回国画会出品 下関美術館蔵

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バラ 72.7×50cm 1997年

 

松田正平・略歴
大正2年
(1913)

0歳

1月16日、島根県鹿足郡青原村(現日原町)に久保田金平、キクの第三子二男として生まれる。

大正10年
(1921)

8歳

山口県厚狭郡宇部村(現宇部市)の松田家の養子となる。

大正14年
(1925)

12歳

山口県立宇部中学校(現山口県立宇部高等学校)に入学。

昭和2年
(1927)

14歳

油彩画道具一式を購入し、油絵を描き始める。

昭和5年
(1930)

17歳

宇部中学校を卒業。東京美術学校を受験するが失敗。川端画学校に通いデッサンを学ぶ。

昭和7年
(1932)

19歳

東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科に入学。藤島武二教室に学ぶ。

昭和9年
(1934)

21歳

養父松田清一死去。

昭和10年
(1935)

22歳

帝展第二部会に<婦人像>が初入選。

昭和11年
(1936)

23歳

文展鑑査展(新文展第1回展)に<休憩>が入選。

昭和12年
(1937)

24歳

東京美術学校油画科を卒業。五年間の計画でフランスに留学。パリのアカデミー・コロラッシュに通う。

昭和13年
(1938)

25歳

コローの<マントの橋>の実景を見るためにマントを、またレンブラントの作品を見るためにアムステルダムを訪ねる。
 ルーヴル美術館でコローの<真珠の女>を模写。秋、ベルネーム・ジュヌの「在パリ日本人画家展」に出品。

昭和14年
(1939)

26歳

マント、モレーなどに滞在。
スペイン内乱を避け、スイスに移されたマドリード国立美術館のグレコ、ヴェラスケスなどのコレクションを見るためジュネーブを訪ねる。
第二次大戦始まる。在留邦人の帰国勧告によりイギリス、アメリカを経由して帰国。

昭和15年
(1940)

27歳

宇部市の緑屋百貨店で「滞欧作展」開催。

昭和16年
(1941)

28歳

国画会第16回展(以後、国展)に<ストーヴ><地図>が初入選。以後毎年出品。

昭和17年
(1942)

29歳

山口師範学校(現山口大学教育学部)美術教師となる。
第17回国展に<集団アトリエ><枯霞草><或るゑかき>を出品、国画奨学賞を受賞。

昭和18年
(1943)

30歳

山口師範学校を辞職し上京。 パリで知り合った吉川精子と結婚。横浜市に新居を構える。 第18回国展に<窓><家>を出品。国画会会友に推挙。

昭和19年
(1944)
31歳 長男孫次郎生まれる。
昭和20年
(1945)
32歳 妻子を連れて帰郷。宇部市大空襲。実家の青原村に疎開。実父久保田金平死去。妻子を益田市の親戚の家に預ける。
昭和21年
(1946)
33歳 妻子を伴い、山口県光市に転居。光時代始まる(〜昭和27年)。
昭和26年
(1951)
38歳 第25回国展に<内海風景><祝島風景>を出品。国画会会員に推挙。 実母久保田キク死去。 この年、東京銀座・フォルム画廊で初めての個展を開催。同画廊での個展は、以後、定例化する。
昭和27年
(1952)
39歳 家族を伴い上京。大田区から、年内に世田谷区玉川用賀に転居。用賀時代始まる(〜昭和34年)。
昭和30年
(1955)
42歳 この年から昭和44年までNHKフランス語講座等(ラジオ)のテキスト表紙絵を担当。
昭和32年
(1957)
44歳 宇部市・明幸堂画廊で郷里で初めての個展を開催。同画廊での個展は、以後、昭和55年頃までほぼ定例化する。
昭和33年
(1958)
45歳 第2回国際具象派展に<海浜><綾取り>を出品。以後、昭和37年の第4回展まで出品。
昭和34年
(1959)
46歳 冬、練馬区に転居。練馬時代始まる(〜昭和38年)。
昭和36年
(1961)

48歳

明幸堂画廊で「松田正平と本田克己二人展」。

昭和37年
(1962)
49歳 日興證券の広報誌「マネービル時代」表紙絵を担当し、一年半ほど続ける。
昭和38年
(1963)
50歳 夏、千葉県市原市鶴舞に転居。鶴舞時代始まる(〜平成7年)。フォルム画廊で「フォルム七人展」に出品。
昭和41年
(1966)
53歳 国画会退会を決め、この年の第40回国展には出品せず。しかし、原精一、木内廣らの慰留によって会員に留まる。
昭和47年
(1972)
59歳 日本洋画商協同組合72年展に<少女>を出品。以後、定例化する。
昭和50年
(1975)
62歳 養母松田操死去。
昭和51年
(1976)
63歳 この頃、現代画廊の洲之内徹を知る。
昭和53年
(1977)
65歳 銀座・フォルム画廊と現代画廊で個展を同時開催。以後、定期的な個展では油彩画はフォルム画廊、素描は現代画廊で発表することが定例化する。
昭和55年
(1980)
67歳 宇部市・菊川画廊で「素描五人展」。現代画廊などを巡回。
フォルム画廊30周年記念フォルム・フェスティヴァルに出品。
昭和56年
(1981)
68歳 サロン・ド・ミキモト展に<周防灘>を出品。
昭和57年
(1982)
69歳 直野進の同道で四十数年ぶりにパリを再訪。
宇部市・清画廊で「開廊二周年記念ー松田正平・宮崎進展」。
昭和58年
(1983)
70歳 「松田正平画集」がフォルム画廊から刊行される。
銀座・松屋で「松田正平画集出版記念展」。
昭和59年
(1984)
71歳 新潮文芸振興会から第16回日本芸術大賞が贈られる。
現代画廊で日本芸術大賞受賞記念個展。宇部市・菊川画廊などを巡回。
フォルム画廊で日本芸術大賞受賞記念個展。
昭和60年
(1985)
72歳 日本テレビで「人生の中の美しさー松田正平」が放映される。
宇部市文化会館で「第16回日本芸術大賞受賞記念ー松田正平展」が開催。
横浜そごうで「香月泰男・松田正平二人展」が開催。
昭和61年
(1986)
73歳 山形市・いながわや画廊で「美の世界ー松田正平展」(フォルム画廊企画)。
昭和61年度宇部市芸術文化特別功労賞を受賞。
昭和62年
(1987)
74歳 山口県立美術館で「松田正平展」が開催される。NHK「風の吹くまま〜松田正平の世界〜」が放映される。
昭和63年
(1988)
75歳 岡山県立美術館の「瀬戸内風景ー近代画家の日」展に出品。
福岡市・ギャラリーふくだで「喜多村知・松田正平二人展」(フォルム画廊企画)。
平成元年
(1989)
76歳 宮城県美術館の「洲之内コレクション展ー気まぐれ美術館」に出品。菊川画廊で「短冊展」。
平成3年
(1991)
78歳 山口県立美術館の「戦後洋画と福島繁太郎ー昭和美術の一側面」展に出品。
平成4年
(1992)
79歳 「山椒魚ー松田正平 山椒魚幻想画譜セット」が一枚の絵から刊行される。フォルム画廊で「刊行記念展」。
平成5年
(1993)
80歳 平成5年度山口県選奨(芸術文化功労)を受賞。
平成6年
(1994)
81歳 福岡県豊前市・マスダ画廊で作品展(フォルム画廊企画)。愛媛県立美術館の「日本近代絵画の一展開ー具象表現を求めて」展に出品。
平成7年
(1995)
82歳 長男孫次郎死去。夫人とともに郷里、宇部市の自宅に帰る。
平成9年
(1997)
84歳 東京・目黒区美術館の「気まぐれ美術館ー洲之内徹と日本の近代美術」展に出品。兵庫県立近代美術館、成羽町美術館、愛媛県立美術館など巡回。
平成11年
(1999)
86歳 東京銀座・阿曾美術で初めての書の展覧会「松田正平書展」開催。
平成12年
(2000)
87歳 NHK「本物の油彩が描きたい〜洋画家・松田正平」が放映される。平成12年度地域文化功労者文部大臣表彰を受ける。
平成13年
(2001)
88歳 東京銀座・阿曾美術で「松田正平書展」開催。以後、毎年開催。
平成14年
(2002)
89歳 平成14年度文化庁長官表彰を受ける。
平成15年
(2003)
90歳 きまぐれ帖」が阿曾美術から刊行される。
「松田正平画集」がフォルム画廊から、昭和58年に次ぐ第2画集として刊行される。フォルム画廊で「画集刊行記念ー松田正平展」開催。
平成16年
(2004)
91歳 宇部市文化会館にて「松田正平展」開催。
5月没。
     
    【参考】山口県立美術館学芸専門監/安井雄一郎編、松田正平画集/フォルム画廊、(協力:フォルム画廊、瞬生画廊)

 

     2022/07/07  絵画部・栄光のOB


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