第10回 栄光のOB 庫田 叕(テツ)
第10回 庫田 叕(テツ)
活躍した嘗ての会員OBを思う・・・
庫田 叕 KURATA Tetsu 1907-1994
庫田 叕(テツ)先生のこと
庫田先生は、1907年(明治40年)福岡県に生まれ、青年期から壮年期にかけて闘病生活を長く送られました。 絵画は梅原龍三郎にその才能を認められ、国展出品を促されると、やがて中心作家として活躍されました。
私が先生にお会いしたのは東京藝大の教授として赴任された時からです。先生は背が高く、ダンディーで颯爽と しておられました。どちらかというとシャイでしたが、私たちのような無作法な学生たちにも気さくに接して下さいました。 大学在任はわずか2年でしたが、担当の助手や学生大勢を食事によく誘ってくださいました。 貧乏学生ではとても出入りが叶わないような立派なお店に連れて行っていただきました。 そこでは物珍しさもあって最初は気後れしましたが、酒が入ると私達は気が大きくなって痛飲し大騒ぎをし、先生や お店に随分ご迷惑をおかけしましたが、先生は楽しそうにしておられ、叱られたりすることは決してありませんでした。 また先生のご自宅に伺って美味しいワインや奥様の手料理を頂いたりもしました。ごちそうになって、お宅を辞去する 時にはご夫妻で門口に立たれ、私たちの姿が見えなくなるまで見送っていただいたことを鮮明に覚えています。
先生がお亡くなりになり、後日知ったことは、先生は大学の報酬の大半を私たちのこうした会に費やしていたそうです。 また時々こうも言っておられました、「私の藝大に来ての最大の仕事は、私の後任に大沼を呼んだことだね」と。 先生の仕事ぶりは現場での写生を繰り返し、それをもとにアトリエで構想し作品に仕上げるというもので、 曲がりくねった梅や松、そして竹林の作品はそうして仕上がったものです。 やがて病を克服されてイタリア滞在、取材を経て完成された作品は独特の表現、格調があり印象深いものです。 「スペイン階段」や古代ローマの遺跡の作品群等々です。 晩年は手入れのよく行き届いたご自宅の庭をモチーフにされていました。 秋の庭に深紅の鶏頭がすっきりと立って、夕日に輝いているのを見ると庫田先生のお姿が思い出されます。
庫田先生が亡くなられて、同級の友人と共にご自宅に伺い遺作展の準備や作品の整理をしました。 その精魂を傾けられた膨大な作品群に触れるにつけ学生時代にはよく分からなかった先生の作品の内容の質の高さ、 梅原が先生を認めたわけが少し解ったような気がしました。
会員 藤本洋文 記
明治40年 (1907) |
0歳 | 2月7日、福岡県宗像郡神興村大字津丸932番地(現在、宗像郡福間町)に倉田主米造意直、シナの五男として生まれる。 | ||
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大正2年 (1913) |
6歳 | 村立神興尋常高等小学校に入学する。 | ||
大正8年 (1919) |
12歳 | 福岡県立宗像中学(現在、宗像高等学校)に入学する。 | ||
大正12年 (1923) |
16歳 | 宗像中学を4年で中退する。9月、関東大震災後、大阪で開催された二科展を見てそのまま上京、長兄主税、次兄主計を頼りとした。 | ||
大正13年 (1924) |
17歳 | 1月、川端画学校に入学、石膏デッサン三ヶ月、その後人体室を出たり入ったり。東京美術学校の進学を志望するが、中学中退者は受験資格なしと知り進学を諦める。 | ||
昭和2年 (1927) |
20歳 | 友人の世話で、当時としては新様式のアパート「エビスクラブ」に住む。詩人草野心平と出会い生涯の友となる。 | ||
昭和4年 (1929) |
22歳 | 児島善三郎邸でのダンスパーテイで馬渕美意子と知り合う。 草野心平の新宿の焼鳥屋の常連となり、高村光太郎に面識を得る。 |
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昭和6年 (1931) |
24歳 | 馬渕美意子と結婚し京都で新生活を始めるも不如意。 第18回二科展に出品。 |
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昭和7年 (1932) |
25歳 | 東京に戻る。品川区大井鈴が森1927通称「ポプラの家」に仮寓。 | ||
昭和8年 (1933) |
26歳 | 九州出身の在京作家の集まり、筑前美術創立会員になる。 | ||
昭和10年 (1935) |
28歳 | 庫田 叕(テツ)第1回作品発表展(銀座青樹社)を開催する。 この時より。”庫田 叕(テツ)”をペンネームとする。 |
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昭和11年 (1936) |
29歳 | 福島繁太郎の援助を受け庫田 叕(テツ)第2回作品展覧会(銀座青樹社)を開催し17点を出品する。 高村光太郎の奨めにより梅原龍三郎を訪ね、国画会出品を勧められる。 家賃滞納でポプラの家を明け渡さざるを得ず、日立で宿屋住まいとなる。 |
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昭和12年 (1937) |
30歳 | 第12回国画会展に「松」「松小品」初出品、同人となる。 福島繁太郎の援助を受けながら、神奈川県足柄下郡吉浜村の日本美術学校分校内に2年間寄寓し制作する。 |
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昭和13年 (1938) |
31歳 | 第13回国画会展に「山畑」「海」「石」「犢」を出品、「松」で第2回佐分賞を受賞する。 第2回新文展に「松と竹」出品、特選を受賞する。 |
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昭和14年 (1939) |
32歳 | 吉浜山上の暮らしは不如意のため、世田谷区九品仏に移転するも埋め立て湿地帯で不健康、坐骨神経痛に悩む。 第14回国画会展に「椿と礎石」「月」を出品する。 個展(銀座・三味堂)を求龍堂・兜屋主催で開催する。 第3回新文展に「松」出品、特選を受賞する。 |
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昭和15年 (1940) |
33歳 | 第15回国画会展に「竹林」「柿並木」を出品する。 (1940) 庫田 叕(テツ)近作油画個人展覧会(銀座。三味堂)を求龍堂・兜屋主催で開催し、10点を出品する。 紀元2600年奉祝美術展に「牡丹」をする。 世田谷区成城835(現在、成城5丁目)の鉄筋アトリエを借りて住む。 近所に青山義雄が在住、毎日アトリエ訪問をうけることになる。 |
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昭和16年 (1941) |
34歳 | 第16回国画会展に「梅林」「ミモザ」を出品する。 庫田 叕(テツ)個展(大阪・美交社)を開催し、17点を出品する。 庫田 叕(テツ)近作展(銀座・資生堂、求龍堂主催)を開催する。 |
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昭和17年 (1942) |
35歳 | 第17回国画会展「静物」「肖像」「無題」を出品する。 第5回新文展に「龍頭」を無鑑査出品する。 |
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昭和18年 (1931) |
36歳 | 千葉県上総一の宮に疎開する。初めて松林のなかで海のもの、野のものに恵まれた生活を楽しむ。 第18回国画会展「桐の実」「松林」を出品する。 |
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昭和19年 (1936) |
37歳 | 第19回国画会展に「蓮」を出品する。 戦時特別文展に「蓮」を出品する。 山形県山形市肴町580へ再疎開をする。 |
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昭和22年 (1947) |
40歳 | 富士正晴の世話により京都市左京区下鴨高木町24京大教授宅二階に仮住居。 第21回国画会展に「玉葱」を出品する。 第1回美術団体連合展に「Y婦人像」を出品する。 |
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昭和23年 (1948) |
41歳 | 第2回美術団体連合展に「石垣の家」を出品する。 | ||
昭和25年 (1950) |
43歳 | 国画会中堅会員により型生派美術協会結成。第1回型生派展に出品する。 | ||
昭和26年 (1951) |
44歳 | 第25回国画会展に「伊豆A」「伊豆B」を出品する。 第5回美術団体連合展に「伊豆」を出品する。 第2回型生派展に出品する。 庫田 叕(テツ)個展(東京・フォルム画廊)を開催する。 |
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昭和27年 (1952) |
45歳 | 第26回国画会展に「ミモザ」「人間」を出品する。 庫田 叕(テツ)油絵展(銀座・フォルム画廊)を開催する。 叕(テツ)は肺結核のため自宅療養を続ける。 |
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昭和28年 (1953) |
46歳 | 第3回型生派展に出品する。 持病の喘息も併発、専ら本の装幀を病床で続け生活費に充てる。 |
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昭和30年 (1955) |
48歳 | 第29回国画会展に「竹のむれ」を出品する。 | ||
昭和31年 (1956) |
49歳 | 中村天風との出会いにより、驚異的に健康をとりもどす。 高村光太郎逝去。73歳。 第30回国画会展に「花のおきなおもて」(高村光太郎のデスマスク)「竹」を出品する。 国画会30周年記念展(上野松坂屋)に「竹」を出品する。 |
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昭和32年 (1957) |
50歳 | 第31回国画会展に「ベニバナ」「竹」を出品する。 | ||
昭和33年 (1958) |
51歳 | 第32回国画会展に「網」「庭」を出品する。 庫田 叕(テツ)油絵近作個展(銀座・兜屋画廊)を開催する。 第1回庫田 叕(テツ)作品展(大阪フォルム画廊)を開催する。 |
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昭和34年 (1959) |
52歳 | 第33回国画会展に「網」「樹木」を出品する。 第2回庫田 叕(テツ)個展(大阪フォルム画廊)を開催する。 |
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昭和35年 (1960) |
53歳 | 第3回国際具象派展に「石」を出品。 第34回国画会展に「ベニバナ」を出品する。 第1回グループ・レ・サンク展(庫田 叕(テツ)、須田剋太、宇治山哲平、香月泰男、熊谷九寿/大阪フォルム画廊)に出品する。 渡欧。ローマに入り、カイロ・ギリシャ・シチリア島を巡り、北イタリア・スイスを廻る。 |
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昭和37年 (1962) |
55歳 | ローマ近郊、およびギリシャ、シチリアでの取材を基に制作。7月に帰国。 | ||
昭和38年 (1963) |
56歳 | 第37回国画会展に「アクロポリス」を出品する。 庫田 叕(テツ)滞伊作品展(日本橋_島屋)を開催し、35点を出品する。 叕(テツ)滞伊作品展(名古屋フォルム画廊)を開催し、25点を出品する。 |
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昭和39年 (1964) |
57歳 | 第38回国画会展に「私のコロッセオ」を出品する。 昭和初期洋画展(神奈川県立鎌倉近代美術館)に「堤」「舟」を出品する。 |
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昭和40年 (1965) |
58歳 | 第39回国画会展に「小寿鶏遊ぶススキの庭」を出品する。 庫田 叕(テツ)個展-近作と滞伊作品-(福岡フォルム画廊)を開催し、25点を出品する。 |
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昭和41年 (1966) |
59歳 | 第40回国画会展に「竹叢」を出品する。 国画会40年の展望(日本橋三越)に「竹」を出品する。 |
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昭和42年 (1967) |
60歳 | 第41回国画会展に「松A」「松B」を出品する。 庫田 叕(テツ)個展「日本のこころを求めて」(日本橋・日本橋画廊)を開催し、28点を出品する。 庫田 叕(テツ)個展(北九州画廊)を開催する。 山口へ香月泰男を訪ね、津和野・益田・大山・松江と回り、京都を取材。 |
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昭和43年 (1968) |
61歳 | 日本橋_島屋にて梅原龍三郎を囲む6名の画家による第1回臥龍会展に出品する。 第42回国画会展に「小さな漁港」を出品する。 |
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昭和44年 (1969) |
62歳 | 第43回国画会展に「浄土山道」を出品する。 第2回臥龍会展(日本橋_島屋)に出品する。 |
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昭和45年 (1970) |
63歳 | 第44回国画会展に「断崖」を出品する。 第3回臥龍会展(日本橋_島屋)に出品する。 妻美意子死去。74歳。 庫田 叕(テツ)個展(日本橋_島屋)を開催する。 |
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昭和46年 (1971) |
64歳 | 草野心平・庫田 叕(テツ)編纂、装幀「馬渕美意子のすべて」出版 第4回臥龍会展(日本橋_島屋)に出品する。 “馬渕美意子の遺作・庫田 叕(テツ)「石の系譜」展”(銀座・彩壺堂サロン)を開催する。 国画会退会。 |
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昭和47年 (1972) |
65歳 | 伊藤永子と再婚、フランスへ。ニース滞在中の一ヶ月は、殆ど毎日青山義雄の来訪を受ける。 東京藝術大学教授に就任。 第5回臥龍会展(日本橋髙島屋)に出品する。 |
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昭和48年 (1973) |
66歳 | 東京藝術大学陳列館にて庫田 叕(テツ)作品展が開催され、35点を陳列する。 第6回臥龍会展(日本橋髙島屋)に出品する。 |
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昭和49年 (1974) |
67歳 | 東京藝術大学定年退官。 以後、髙島屋・日動画廊での出品を続ける。 84歳頃より、肺機能の衰え著しく、入院をくりかえす。 |
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平成4年 (2002) |
87歳 | 肺炎にて死去。享年87歳。 | ||
平成14年 (2002) |
「回想の庫田叕(テツ)展」(日動画廊)開催され、50点が出品される。 |
2022/07/07 絵画部・栄光のOB|