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貫いたひと一追悼栗山茂先生
会務委員: 青 木 鐵 夫
栗山茂先生の生涯は、版画への初心を貫いた98年であったと言えるでしょう。
昭和4年、17歳の先生は仲間と版画グループ「童土社(どうどしゃ)」を結成します。昭和6年には版画雑誌「ゆうかり」を創刊。「ゆうかり」第14号のあとがきは、先生の昂揚した気持ちを伝えています。「版画が珍しい時代は過ぎてゐるのだ。我々は我々の経験一切を整理して次の新しい飛躍をなさねばならない」
この青年栗山茂の情熱は、その後の先生を方向づけました。恩地孝四郎や平塚運一との交流から、版画の独自性を先生は早くから理解し追求します。恩地も評価した、先生工夫の紐版画はその現れです。この道程が「栗山茂の紙版画」が生み出したのです。先生の手は、紙を独白な表現媒体に変貌させます。ひとびとの営みへの共感を詠う美しくふくよかな紙版画、それが栗山茂の世界です。先生が発表される作品の一つ一つは、私たちの怠慢を優しく鋭く見透かしているようでした。
思えば、昭和初期の創作版画運動の機運のなかで先生は版画家として出発し、国画会版画部の歩みとともに作品を作り続けました。そんな先生の言葉には、歩んで来た長い年月の重みがありました。
「他へ逃げるのではなく、深めて行くことを考えるべきだ」。先生のこの言葉は、私たちが座右の銘とすべきでしょう。よい仕事で、先生への感謝を示したいと自覚しています。 (静岡県藤枝市在住)
本橋雅美 masaharuのこと
国展絵画部準会員: 本 橋 信 子 (故本橋雅美氏ご令室)
昨年の夏、私は大急ぎで雅美の遺作展を開きました。雅美が自身の手で開きたかった作品展。一日でも早くその願いを叶えてあげたかったのです。本橋は東京都下保谷に生を受け、亡くなる迄の63年間をこの地で過ごしました。少年時代は戦後の復興と共に多くの子供達同様、野球が大好きな少年でした。白いボールを追って見上げた時に目に焼きついたのは、夏雲、広い野原、飛び交う蝶、それぞれが原風景となって、40年後の自身の銅版画に登場するとは、不思議で楽しいことです。そんな野球少年が一生の仕事に絵を描くことを選んだのは、中学3年の時の怪我でした。高校で研究所通いをし、武蔵野美術大学油絵学科在学中に上野の野間伝治先生の工房に通い銅版画を学びました。国画会に出品途中にメゾチントに技法を変え、88年に国画会会員に推挙されました。同時に中学時代の手術時の輸血からのC型肝炎ウイルスキャリアであることが判明、以来21年の長きに渡る闘病が始まりました。手術を含め、闘病を続ける中、作品は彼の手で育ってゆきました。「蝶」が登場し始めた頃のスケッチブックに
「雪の日 胸の中に 蝶が飛んだ
私の中で 確かに 蝶が飛んだ]
という詩が残っています。時にユーモラスな面を見せ乍ら、深遠な世界を丁寧に築き挙げた本橋雅美の作品を私は大事に守り続けようと思います。
初めて、九州での国展 第85回国展福岡で開催
準備委員: サイトウ 良
- 名称一国展福岡展
- 会期ー2011年6月28日(火)~7月3日(日)
- 会場一福岡市美術館
- 建築概要:敷地面積 25,866㎡
- 建築面積:8,541㎡、延床面積 14,526㎡
九州では西部国展として15年間、絵画部のみで福岡、鹿児島、大分、広島の各県で開催されていた。絵画部だけなので美術館、新聞社、一般の方々にもほとんど知られていない。ところが、日展、二科、独立、モダンアート、行動、新象他は毎年開かれ、春陽会は北九州で開催。絵画部だけの場合、グループ展という意識でしか見られなかったのでは…、今回福岡で、国展が開催されることにより、その大きさが見えるのではないかと思います。
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