・国画会版画部歴史 (詳細) ・70回〜90回までの活動状況 ・国展・版画部の賞の由来
国画会版画部の歩み(抄)
母体である国画創作協会の解散(1928年)に伴い洋画部門が「国画会」として独立、日本の美術団体として初めて国画会の中に版画室が設けられた事は美術団体史における画期的な事である。梅原龍三郎の信頼厚くこの年より平塚運一が前田政雄とともに国画会事務局を委任され、国画会事務局の礎をつくった。平塚は精力的に版画の啓蒙に勤め終戦時の部員は〔川西英・平塚運一・棟方志功・下澤木鉢郎・恩地孝四郎・栗山茂・畦地梅太郎・前田政雄・上野誠・橋本興家・関野準一郎・斉藤清・山口源・笹島喜平・品川工〕他であった。
『国画会の版画』と言われ我国を代表する木版作家主体の木版画の牙城を築くも……戦後の美術界にも大きなうねりが生まれ、銅板・石版・等を試みる作家が現れ〔川上澄夫・稲垣知雄・伊藤勉黄・星襄一・岩見礼花・天野邦弘・熊谷吾良・金守世士夫・川西裕三郎・佐藤宏・鈴木幹二・日下賢二・黒崎彰・平山美智子・高橋新一〕他、多くの作家が誕生し、現在の版画部の礎となった。
◆国展本展の作品を見る機会の少ない地方の方々に本展のままの作品をみて頂こうと……1992年盛岡展・2001年信州上田展・2003年札幌展・2006年沖縄展・2012年小諸高原美術館展も開催し、版画愛好者に大好評をいただいた。
…………平塚運一の遺した一文…………
『啄木鳥にあやかって…コツコツと…木を突っついて…ノミの音………』
国画会版画部の作家は、大地にしっかりと足を付け「コツコツ」と謙虚に制作に励んでいる作家が多く、現代的あらゆる技法も共存し、発表の場も国内にとどまらず広く世界に求め、国際展やコンクール展等で受賞、入選、収蔵される作家も多く、近年は特に新人に広く門戸を開き、育成に勤めている。
白鳥 勲
国画会版画部歴史(詳細)
美術評論家 瀬木慎一
発足から終戦まで
国画会に版画部が設けられたのは、1928(昭和3)年であるが、いささか事情が複雑なのは、この時、母体である日本画主体の国画創作協会が解散し、その第2部であった洋画部門で分化独立して、「国画会」と名乗る様になり、それとともにそれまで第1部の日本画のなかに繰り入れられていた版画は第1部洋画部門に移行することになった。
そしてその翌年に洋画部設置以来4回目となることから、第4回国画展として再出発したこの新団体に、画家の余技としてではなく、平塚運一が版画専門家として初めて会員となるに及んで、1931年の第6回展のとき、ようやく正式の版画部が設けられた。その前後から、第2次大戦が終了するまでの間に、ここに出品して栄誉を受けた作家は次の人びとがあった。
川西英 下澤木鉢郎 棟方志功 小川龍彦 恩地孝四郎 栗山茂 ワルワラ・ブブノワ
畦地梅太郎 前田政雄 上野誠 橋本興家 関野準一郎 黒木貞雄 山口源 笹島喜平
加藤安 そして終戦後の版画部員は9名、会友は3名だった。
美術団体としての最初の版画部
昭和初期における版画の美術業界に置ける位置は極めて微弱だった。それでも、版画部が美術団体内に初めて設けられ床との意義は多大だった。
その当時の版画界そのものの動向を辿ってみると、このことが自明となるだろう。
明治の末年に伝統の浮世絵版画が消滅した後、現代に即応した新しい版画に取り組む作家が徐々に現れて、日本創作版画協会が設立されたのは奇しくも国画会創作協会の発足と同じ1918(大正7)年だった。その時期になると木版画以外の銅版、石版を試みる作家も少数見られて、1930(昭和5)年には洋風版画会が設立される。
そして、これら2つの団体がその翌年に合併して誕生したのが日本版画協会であり、当時の会員は43名だった。
この一連の動きに沿って、国画会の版画室から版画部の設立への発展も可能となったわけである。
これは美術団体史における画期的な出来事といっていいが、とはいえ前記したように、それから13年後の会員は9名、会友3名、そして一般公募の作品も少なく、入選数は22名22点という事情だった。
戦後の発展
1946年、戦争が終わって開催された第1回展、通算にして第20回展を催した際の版画部の入選数のまた、8作家10点という心細い状態で、これは戦後の低迷が如何に深刻だったかを示すもので、低迷はなおしばらく続くが、それにもかかわらず新しい作家の増加がしだいに目立つようになる。
新しい会員となった作家を年次に記すと、次の様になる。
1947年 関野準一郎
1948年 川上澄生
1955年 益田義信
1956年 稲垣知雄
1959年 山口 源 斉藤 清 品川 工 笹島喜平 橋本興家
戦後の再出発から数えて11回目を数えた間に登場したこれらの人びとは、益田を除いて全て木版画家であり、そして品川以外はことごとく具象作家であり、そこに1つの性格が現れていて、「国画会の版画」と世間を印象づけた共通点が認められる。
この間に置ける重要な出来事は、1935年に会友となったまま、何故か会員になることがなかった棟方の1953年の退会であり、そして実質的な指導者だった恩地の1955年の死だった。
このことを版画界全体の動向に照らしてみると、1952年に日本版画協会がその20年回記念国展の機会に会員・会友の名簿を再編した結果、83名を協会所属作家と確認しているなかで、その大多数がこの会の所属もしくは出品者であるという事実は、そのウェートの大きさを物語るものといっていい。
新世代の進出
1956年、第30回展を迎えたあたりから、国画会版画部は次の段階へと徐々に移行していった様に見える。その指標として、前例につづけて新会員が登場する後を追って見よう。
1958年 中川雄太郎 栗山 茂
1959年 伊藤 勉
1960年 中尾義隆 星 襄一 岩見礼花
1961年 河野 薫 天野邦弘
1963年 熊谷吾良 佐藤 宏 玉上恒夫
1964年 尼野和三
1965年 金守世士夫 高木志朗 日下賢二 鈴木幹二
1966年 はりかえしょうじ
一見して自明なように、前段階における明治・大正世代と対照的な大正・昭和の進出であり、両世代が並行して競争する時代が到来している。
昭和世代の活躍
同様の方法でその後の推移を追っていくと、時代の変化が彷彿とするだろう。
1969年 渡辺禎雄 大橋弘明 高橋信一
1970年 黒崎 彰 佐藤鴨男 鶴岡 洋
1971年 川西祐三郎 平山美知子
1972年 いわたきよし 高橋省三
1973年 伊藤真澄
1976年 黒木良典
1978年 木村義治 稲垣朱実 サイトウ良
1979年 岡部和彦 平野正房
1980年 前田政晴 有地好登 星野美智子
1981年 増田陽一 長谷川安信
1982年 山田信久
1983年 園城寺建治 荒木良子
1986年 青木鐵夫 斉藤ぶんせん
煩をいとわず、第60回展までの新会員を列記してみたが、それ以降の人びとを含めて、今や昭和世代が圧倒し、主導する除隊が出現したことは誰の眼にも明らかだろう。それとともに見逃せないのは、版画の技術上の変化で、従来の木版画一辺倒の状態から、銅版、石版、スクリーン版その他の多様な技法が競合する時代が出現している。
これは一団体内の変化というよりは、日本の版画界全体に見られる現象であり、あるいは国際的な動向といっていいものだろう。
国際時代の到来
事実、1957年に始まり、79年まで開催された東京国際版画ビエンナーレ展によって促進された国際化の潮流は、若い世代を強く感化し、その眼を世界に向けさせ、海外に活動の場を広げることとなった。その成果として、各国の国際版画展で受賞した作家たちを一覧すると、この会の所属作家のなかから何人もの名が眼につく。
棟方志功=ルガノ52、山口 源=リュブリアナ57・ルガノ58・グレンヘン58、天野邦弘=ルガノ64・ピストイア68・クシロン69・チェコスロバキア70・ブレヘン76・ブエノスアイレス72・フィリピン72・リストウエル78、尼野和三=ルガノ64・クシロン65・東京66・リュブリアナ67・ノースウェスト67、斉藤 清=リュブリアナ57、関野準一郎=ノースウエスト60・
リュブリアナ61、日下賢二=東京66・68、黒崎 彰=東京70・クラコウ70・フィレンツェ72・クラコウ74・ソウル81・ノルウェー82、高木志朗=グレヘン58・クラコウ68、サイトウ良=ニューハンプシャー74、増田陽一=ニューハンプシャー74。
主要な受賞を挙げてみたが、これだけでも会の所属の版画家たちの健闘振りがよく分かる。
棟方、山口、関野から始まった国際展での受賞は、60年代以降、ほとんどすべて、若い世代が獲得するところとなって、まことに目ざましい。
70回から90回展までの国画会版画部の活動状況
1996年国展70回記念国展後、世の中はバブル(80年代〜90年代初頭の好景気)が崩壊し経済界、美術界の風向きが変わった。版画ブームは去り、美術界全体が冷え込む。60年〜90年代初頭の美術界の前向きな姿勢は消え啓蒙、団体無用論という言葉も静かになった。
1992 年
1990~1996年
版画部展及び国展版画部受賞者展を東京銀座JBCギャラリーの協力で始まる。その後97年から現在に至り、国画会版画部主催で東京銀座・地球堂ギャラリーの協力で毎年開催中。
◎96年国画会全体として日本橋、高島屋デパートで、「自然保護のため」チャリティーを開催、地球環境基金に20,117,900円寄贈する。
その後、毎年国展開催会場で各部チャリティを行いNHKと朝日新聞を通じて(財)日本自然保護協会へ毎年150万円を寄贈している。
1997年
リレー講演会「三人三様、私の世界」開催。版画部からの後援者、栗山茂会員。99年いわたきよし会員。2001年は熊谷吾良会員の出演。
◎97年11月平塚運一会員(101才)斉藤 清会員(93才)亡くなる。
◎版画部は独自の機関誌を世古 剛編集長のもと年一回刊行する。
1998年
故 斉藤 清会員、国画会の総会にて国画会で15番目の客員に推挙される。
2001年
21世紀元年版画部は平塚運一賞を新設。第一回受賞者に竹原仁子氏が受賞する。
◎長野県上田市で福田良隆氏のプロデュースで信濃毎日新聞社、朝日新聞社、上田市教育委員会後援のもとに「第75回国画会版画作家展を開催」。
◎75回記念国展、東京都美術館にて特別展示される。
品川 工、サイトウ良、白鳥勳、星野美智子、前田政晴、増田陽一、各々会員の力作が展示される。選出されたメンバー=赤星啓介、小原喜夫、島田善雄、鈴木修一、澄 和子、世古剛、米倉 泉、竹原仁子、中西茂幸、政森暁美、松江喜代寿、山口雅三会員・準会員の作品が展示される。
2003年
北海道の木村多伎子会員、内藤克人会員と準会員、一般出品者の皆様の3年間の努力で国画会版画部としては、北海道では初めての「03国画会版画部札幌展」が開催された。
◎パネルディスカッション「可能性ー21世紀の公募展」東京都美術館講堂で開催。ゲスト
瀬木慎一氏(美術評論家)、田中三蔵氏(朝日新聞文化編集委員)による美術団体の起こりから美術界の現状を語る。
◎版画部奨励賞新設。斉藤郷子氏が第1回受賞者となる。
2004年
パネルデッィスカッション「自然と人間、スローにアート」ゲスト戯曲作家、別役 実氏講演の後、討論会。パネリストとして版画部からは星野美智子会員出演。
2005年
パネルディスカッション「これからの表現と領域」として討論会開催、コーディネータとして版画部のサイトウ良会員。パネリストとして小原喜夫会員、内藤克人会員が出演。
2006年
パネルディスカッション国立新美術館における「表現の可能性」というテーマで各部代表の討論会。版画部からはサイトウ良会員が出演。プロデュースは版画部が進行、委員長として園城寺建治会員が担当。
◎現在の国画会版画部の会員・準会員の世界での活躍は、ポーランドのクラコウ、スペイン、ドイツ、ブルガリア、マケドニア、ルーマニア、インド、台湾、韓国等、米国はテロの防衛の為、国際展は全面中止されているが他の国は開催されている。その中で常連入選者を拾ってみると増田陽一、サイトウ良、星野美智子、鈴木修一、白鳥 勳、工藤忠孝、米倉 泉、三好まあや、内藤克人、仁科恵美の会員の面々と堀 宗照、穂積千幸、三島英嗣の準会員の活躍がみられる。国際展の活躍は各人の自信と発展に繋がるのではないだろうか。
◎技術の発展としては木版を中心に銅版、リトグラフ、シルクスクリーン、CGなど、特に星野美智子会員のウォ―タレスリトグラフの新しい技法の普及、また嶋田善雄会員のコラグラフの指導等、今後の発展に期待するところである。
◎長峰 斉準会員の努力による国画会版画部の「特別沖縄展」が開催された。
2007年
「国立新美術館」に移転「81回国展」開催。版画部は国画会を通過した物故作家平塚運一、恩地孝四郎、棟方志功、畦地梅太郎、招待作家として天野邦弘、黒崎 彰、日下賢二、岩見礼花・・・他。その他の作品を東京六本木に完成する「国立新美術館」移転記念として展示する。特に棟方志功の「湧然する女達々」の作品は、日本人が初めてサンパウロの国際展でグランプリを受賞した作品であり、圧巻であった。
◎星野美智子会員の協力で、アルゼンチン国立版画美術館よりアルゼンチンを代表するアーティストの版画20点を移転記念として展示する。
国画会版画部図録に美術評論家の瀬木慎一氏とアルゼンチン共和国在日全権大使ダニエル・D・ポルスキ氏、及びアルゼンチン国立版画美術館館長パトリシア・コーエン氏のメッセージを掲載する。
◎国画会全体として第1回トークイン始まる。版画部のトーク者(青木鐵夫、廣江嘉郎、増田陽一、三村博司、サイトウ良、米倉 泉の各会員)版画の技法と制作意図等解説。
◎「国展」入場者数10万人の観覧者であった。
2008年
第82回国展トークイン、版画部トーク者(米倉泰民、阿部陽子、前田政晴、松江喜代寿、鈴木修一の各会員)。主催国画会、国立新美術館。後援 文部科学省、東京都教育委員会。
◎版画部受賞者展(地球堂ギャラリー)
◎国画会事務局長として岡部和彦会員就任(二年間)
2009年
第83回国展トークイン、版画部トーク者(木村多伎子、安井丸男、角田元美、山下進一郎、星野美智子の各会員)。主催 国画会、国立新美術館。後援 文部科学省、東京都教育委員会。
◎版画部受賞者展(地球堂ギャラリー)
2010年
第84回国展トークイン、版画部トーク者(園城寺建治、世古 剛、小原喜夫、工藤忠孝、竹原仁子の各会員)主催 国画会、国立新美術館。後援 文部科学省、東京都教育委員会。
◎12月「故品川工会員の作品を囲んで偲ぶ展」を開催。国画会版画部主催・東京銀座・地球堂ギャラリー協力
◎版画部受賞者展・版画部作家展(地球堂ギャラリー)
2010年第84回国展(文責 国画会版画部元会員 サイトウ良)
2011年
東日本大震災が3月11日に発生。国展の開催も危ぶまれたが、多少の制約のもと開催できた。
例年開催されているチャリティーを「東日本大震災支援のためのチャリティー展」として開催、売上金を日本赤十字社を経て被災地へ贈った。会友制度始まる。
会友賞が新設され、笠井直美・栗山薫が第1回の受賞者となる。
第85回国展トークイン開催 トーク者〈青木晴美・太田策司・岡部和彦・杉山英雄・澄 和子〉。
版画部受賞作家展(銀座、地球堂ギャラリー)。
2012年
版画部小諸展開催(小諸高原美術館・白鳥映雪館)国展本展全会員作品と86回国展受賞作品を展示、沖浦卓夫、柴田吉郎、池内満子、山浦久人らの尽力により開催された。
版画部受賞作家展(銀座、地球堂ギャラリー)。
版画部作家小品展(銀座、地球堂ギャラリー)。
第86回国展 トークイン トーク者〈サイトウ良・中西茂幸・仁科恵美・吉川房子〉。
2013年版画部受賞作家展(銀座、地球堂ギャラリー)。
第87回国展 トークイン トーク者〈杉山髙史・續山茂樹・内藤克人・米倉泰民〉。
川西裕三郎会員年功会員へ移行。
2014年
版画部受賞作家展(東京都美術館)。
この年より版画部・彫刻部・工芸部・写真部の4部合同で開催。版画部受賞作家展(銀座、地球堂ギャラリー)。
第88 回国展 トークイン トーク者〈沖浦卓夫・奥野正人・國井英和・藤田 泉〉。
木村義治遺作陳列。
2015年
版画部受賞作家展 版画・彫刻・工芸・写真の4部合同で開催(東京都美術館)。
第89回国展 トークイン トーク者〈赤星啓介・圡屋敦資・穂積千幸・政森暁美〉。
川西裕三郎遺作陳列。
2016
90回記念国展。
90vs90展 国画会を90年支えてきた90名の5部門の現役会員による展覧会(O美術館・光村グラフィックギャラリー)。
90回記念国展シンポジウム開催(国立新美術館講堂)。
国画会歴代作家資料展示(国立新美術館特設会場)。
版画部活動状況資料展示。
過去10年間の国画賞中心の受賞作品展示。展示作家〈高野理恵子・神田和也・鈴木豊志・鬼頭幸三・土屋敦資・奥秋広美・高橋 保・笠井直美・津田恵子・平垣内清〉。
ブルタン版画記念発行。
90回記念国展 トークイン開催 トーク者〈亀川尚子・熊谷吾郎・冨永真理・波岸康幸〉。
井上彌五郎遺作陳列。福岡巡回展が福岡市立美術館改修工事の為、福岡アジア美術館で開催。
国画会版画部
国展・版画部の賞の由来
国画会は絵画、版画、彫刻、工芸、写真の5部門から成り、共通の賞としては、監査の結果、優秀な作品に与えられる、準会員優作賞(第74回展から会友優作賞を変更)、国画賞、新人賞、会友賞があり、それぞれ授与されます。そしてその他に各部独自の賞が設定をされています。版画部としての賞は次のようになります。
【版画部準会員奨励賞】92回展より新設
準会員のための版画部独自の賞として準会員優作賞に順次、準会作品の中から優秀と認めた作品に平成30年、第92回国展より授与が始まる。
【版画部奨励賞】
一般出品作品の中から優秀と認められた作品を選出し、平成15年、第77回国展よりこの賞を授与する事になった。
【前田賞】
昭和49年亡くなられた前田政雄会員のご遺族の遺志により設けられた前田基金を基に昭和51年、第50回展から設置された。当初5部門に授与されていたが、昭和63年、第62回展より版画部のみの賞となった。前田政雄会員は昭和18年に会員に推挙され、昭和29年から約5年間国画会事務局長も務められ発展に尽力された功労者である。
【平塚運一賞】
平成10年長女の平塚浩子様から、大正4年から昭和13年までの上州、隠岐、信濃、天草等々の旅のスケッチとその時の短歌を木版画にした、「旅の回想」12セットを、若い版画家のためにと寄贈された。それを木下賢一氏のご協力を得て基金とし、平成11年、第74回展より20年間授与する事となった。平塚運一会員は昭和5年、第5回展に国画会事務局を引受け、昭和6年、第6回展に国画会版画部創設に尽力され、下澤木鉢郎、川西英、棟方志功他を育て、恩地幸四郎を迎えて版画部の基礎を作られた。平成9年、102才で亡くなられるまで現役であった。
【金守世士夫賞】92回展より新設
平成28年に亡くなられた金森世士夫会員の生前からのご遺志である「若い作家の育成のために」と金森世士夫基金を嘉子夫人よりご寄贈いただき、平成30年、第92回国展より授与が始まる。金森世士夫会員は、大正11年富山県で生まれ、帝国美術学校卒業後棟方志功に師事、国展初め多くの国際展で受賞を重ね、アメリカ・カナダ文化省招待を受け両国で版画指導、昭和53年版画芸術院を設立、富山市文化功労賞、富山県文化賞、勲五等瑞宝章等数々の功績をあげられ、94才で亡くなられるまで制作意欲満々の現役であった。
【野 島 賞】
写真家・野島康三会員が昭和39年に亡くなられ、会員の遺志として、いね夫人から国画会に寄附があり、それを基金として、昭和40年、第39回展より設置された。当初写真部だけでなく、各部均等に授与されていたが、昭和63年、62回展より写真部のみの賞となった。
【M・K奨励賞】
銅版画家・マリアン・コーン準会員が昭和62年に亡くなられ、ご遺族フランク・コーン氏から「若い優秀な版画家」のためにと基金をいただき、昭和63年、第62回展から設定され、平成12年、第74回展まで授与された。