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出 会 い
会務委員: 青 木 識 夫
さまざまな出会いを重ねながら、私たちは暮らしている。「袖振り合うも他生の縁」を題名に連作したことがあった。たしかに、宿縁としか思えない出会いがある。
オーストラリアの小都市ペンリスでの個展開催も、縁に縁が重なってのことであった。 2009年11月から2010年1月にかけてのことである。
遊覧船が行き来するネピアン川のほとり、紫色の花もたわわなジャカランダの並木を抜けると瀟洒な美術館がある。版画38点とドローイング2点は、美しい庭を前にしたギャラリーに気持ちよく展示された。作者として、たいへん嬉しい眺めであった。
人間を描いた墨と和紙による私の木版画は、オーストラリアの人たちに新鮮に映ったようだ。多くの人から共感の言葉もいただいた。
短い滞在を終えての帰りの機中で、己の来し方を振り返ることがあった。
中学時代、平塚運一の大型画集に出会った。木版画をはじめたのはこれがきっかけだから、隨分になる。なぜ木版画を続けているのだろう。木版画はその技術的な特性から、否応なく簡明な表現になる。結果として、肉筆との違いを本版画は鮮やかに示す。また木独自の風合いもある。私はそこに惹かれてきたのだ。五十年余りやってきて飽きることがない。人生一番の出会いは木版画であったと、思い至る私であった。(静岡県藤枝市在住)
創作は感動そしてしつこさだ!
……岡本太郎じゃないけれど
会員:米倉 泉
便利な時代になった。なんでも数値に置き換えられ合理的に物事が進んで行く。知らないうちにその恩恵を授かりながら生活している。あまりにも早く時は過ぎて行く。手探りをしながら版画制作をしていると、ふと日常に戻った時、この時代の流れへの違和感を持つ。数字で管理された世界にもやもやとした気持ちが残る。表現の世界は常に答えが出ない割り切れない物が相手のような気がする。だから、続けられるのかも知れない。斯く言いながらも今、とても時間のかかる不便な版の腐食作業をしながら、便利なパソコンに向かっている。限られた時間の使い方が一方向へと無意識に流されることを拒否するかのように。
コラグラフと銅版画制作を長年やってきた。いずれもデコボコを作りながら版制作をしていると、その平坦な支持体にどのような影を作っていくかが大切な問題となる。どんなにしっかりした作品のイメージがあってもデコボコ具合を理解しないと無惨な残骸ばかりを作る事になる。むしろイメージは半分位にとどめておかないと版との折り合いをつけながらあとは成り行きまかせにしたほうが良いのかも知れない。そして素材の性質を考えた場合「待つ」ことの大切さを知る。ものとものとを融合させながら制作してゆく作業は無理矢理急ぐ事が、いかにその場凌ぎかがわかってくる。ひとつの版として馴染むには、それなりに自然の時間にまかせるしかない。ただ「待つ」だけでは余りに消極的で退屈を伴う。そこで「磨く」。版の中を仕上がった絵のイメージを持ちながら手加減してあちこちと研磨する。この愚直な単純作業が版として無理な凹凸を馴染ませひとつの世界を作ってくれる。
心と形はなかなか融合してくれない。それでも懲りずに制作する。未だに壁にぶつかることは常だが、そこから得られるものは大きい。「創作に大事な事は感動。その想いを強く伝えるためには作品に向かうしつこさです。」子ども時代の恩師の言葉がいつも心の支えとなっている。 (東京都西東京市在住)