国画会が運営する日本最大級の公募展。

国画会絵画部の歴史について

 国画会の発端は「国画創作協会」に発する。国画会創作協会は1918年(大正8年)日本画家、小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰ら京都の新進気鋭の日本画家たちにより創設された。彼らは情実のうず巻く当時の文部省美術展覧会(文展)の審査に対する不信感から、自由な制作と発表の場を求め、文展を退いたのである。そして後に入江波光を加え、京都絵画専門学校に学んだ30歳前後の青年画家達6人により協会を運営していくことになる。
 同協会はわずか10年で解散するが、「創作の自由を尊重するのを第1義とする」として日本画界の革新を目指し、芸術を「生」の問題としてとらえようとした理念は、若い画家たちに大きな刺激を与えた。その定期展は「国展」と通称された。

  国画創作協会宣言書(要旨)・・・「各自ハ各自ノ自由ノ創造ヲ生命トス」
                 「芸術ノ創作ハ極メテ自由ナラザル可カラズ」
                 「本会ハ創作ノ自由ヲ尊重スルヲ以テ第一義トナス」
(参照:国画会創作協会宣言書・・・土田杏村)

第2部の誕生から国画会へ

 明治末期から大正のはじめにかけては海外からの影響が強く、国内では日本画洋画の垣根なく、絵画全体を論じ研究される風潮が出てきていた。そのころ土田麦僊、梅原龍三郎らは一緒に研究会をもっていた関係で1925年(大正14年)国画創作協会は、梅原龍三郎(37歳)、川島理一郎(39歳)、を迎え入れ、1926年(大正15年) 第2部としての洋画部を新設し、田中喜作、川路柳虹、野島康三、を評議員に加え、清新な芸術の創造を目指すことになった。会員は椿 貞雄、河野通勢、高村光太郎ら9名であた。
 それまで展覧会は秋期であったのが、春に延期されて以来、春期に定着するにいたった。画壇的に見るならば、官展としての帝国美術院(1919年第1回展)と在野の二科会、春陽会、国画創作協会が並ぶ形となったといえよう。翌年には彫刻部、工芸部を設置した。
 1928年(昭和3年)国画創作協会第1部が解散してからは名称を「国画会」と改称し、展覧会名も通称としての「国展」を継承し、梅原龍三郎を中軸として、その主宰の下に成長を続けた。2年後絵画の中に含まれていた版画も版画部として独立する。また14回展では写真部も加え、計5部からなる総合公募美術団体となった。

草創期

 草創期に国画会の果たした在野団体としての役割は、毎年のよに西洋の優れた作品を特別陳列して世に広く紹介したことが特筆として挙げられる。たとえば1938年までに9回にわたり、マチス、ドラン、ボナール、ピカソ、ロダン、ブールデル、ルオー、ルノワール、セザンヌ、ルソー、マイヨール、ユトリロ、モネ、シャガール、デュフィ、ピサロ、ブラマンク、コロー等の作品を紹介した。海外作品に触れることの少なかった当時には非常に有益な行事であった。同時に内部的に研鑽の資としてきたことは、この主張の現れでもあった。戦後芸術に関しても、個性的にして様々な発想、技法、様式が普遍化した。
 国画会も創作の自由を尊重するのを第1義とした創立精神に基ずき、世界的現代的視野にたち、創造的にして個性的な作品発表の場として、実に多様・広角的な作品を包含する内容となっている。1926年(大正15年)を第1回展とした国展は、戦争激化のためやむなく中止された1945年(昭和20年)を除き、現在まで継続して開催してきた意義は極めて大きい。それは絵画・版画・彫刻・工芸・写真の5部それぞれに日本を代表する作家を多数輩出してきたことの証しでもある。そして近年、人間がいかに自然と社会と関わりをもち得るのか等、美術団体としてのあるべき姿を模索し具体化しつつある。また会の運営はすべて合議制になっていることを付記しておきたい。

 

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